きまたまジャーナル

オーロラの海に浮かぶ氷山と、アーモンドの花冠

最近のこと 3

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夫は私を連れて逃げるつもりだったのだろう。悪口や批判は一切口にせず、ある日の礼拝の帰り道、ただ一言、もうあの教会には行くのはやめるよ、とだけ私に告げた。

 

けれども、私には神様の心がわからなかった。そもそも、人がどの教会に通うのかは、神様から出ること。決定権は神様にあり、私に選択の余地はないと思っていた。つまり、もし神様が「別のところへ行け」というなら、光の速さで飛び出すべきだし、「ここにとどまれ」というなら、岩のようにとどまるべきという理解である。

 

自分はまだ何も聞いていない。そう思った。

 

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決定権は神にあるという流れで脱線するけど、アブラハムなんて、とんでもないことを神様から語られたとき、妻のサラにさえ相談しなかった。明確に語られたら、相談する余地はない。

「サラ、お前どう思う? 神様が、昨夜、うちのイサクを生贄にしなさいっておっしゃったんだよ」

そんなアブラハムはありえない。

 

もちろん、サラの心情としては、蚊帳の外感がぬぐえなかったはずだ。山から下りてきたアブラハムとイサクから事の顛末を聞かされたとき、寿命が縮むほど驚いただけでなく、母であり妻である自分がないがしろにされたと感じただろう。

 

「お願いだからアブラハム、そういう大事なことを勝手に決めないでちょうだい。息子の命のことなのに、なんで相談してくれなかったの。言っとくけど、あの子産んだのは私よ。しかも90過ぎの初産だよ。産むのも大変だけど育てるのも大変だったんだから。分かってる? 絶ーっ対分かってないよね。いや、ゴメンで済んだら警察いらないって」

こんな感じで憤慨したか、2.3のため息くらいはついたことだろう。(妄想)

 

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さて、夫の通い始めた教会は穏やかで、メッセージもフォローアップも伝道体制もしっかりしていて、とても良い雰囲気だった。家からも近い。でも、そこにも集うなかで、なぜか私は、自分のいるべき場所はここではないという確信を深めていった。そこで祈れば祈るほど、その教会の空気が、私を静かに押し出すように感じられた。

 

そしてふと、ひとつの御言葉に目が止まった。

 

"ただ、あなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ばれる場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。"
申命記 12章5節


主が選ばれた場所、というフレーズに心がときめいて、そのとたん、胸に涙が満ちた。神様が私のために選んでくださった場所がある。そこへ戻ろう。そして、しなさいと言われることをして、ただ神様の御言葉だけについていこう。

 

そんなふうに思った。

 

ー神様。たとえ私ひとりであったとしても、私はそこに立ち続けます。