きまたまジャーナル

オーロラの海に浮かぶ氷山と、アーモンドの花冠

個人的メッセージメモ 21

赦してから祈りましょう 

2023.6.16  ダニエル・リー師

https://youtu.be/qsK7ttgYx9I

 

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エス様を信じる者は、個人の信仰生活の勝利のためにはもちろん、家族や周りの人の救いのためにも、心を尽くして祈らねばなりません。私たちの力では何にもできないと、常に認めなければならないのです。神様がなさるとき、すべてはうまくいきます。神様が働くようにされる道が、祈りです。


祈りなしでは何にもできないことを、常に心に留めねばなりません。神様が教会を作られた目的のうち、最も重要なものの1つは、共に集まって神様に礼拝を捧げること、集まって主に祈ること。イエス様は神の家である神殿で商売している人をみな追い出されました。


"そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」"

マタイの福音書 21章13節


神様の家は、メッセージをする家・奉仕をする家ではなく「祈りの家」です。


もちろん、家で一人でも祈れます。でも家で長時間集中して大声で祈るのは、ほぼ不可能に近い。私たちの教会では金曜日集まる時間を持っていますから、少なくとも金曜のこの時間は共に集まり、心全部を注ぎ出して祈らねばなりません。


正直なところ1週間に1回では全然足りないです。これをやった時にようやく生きることができます。本当に切実に祈らなければ絶対勝利できません。


"二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」"

マタイの福音書 18章20節  


エス様も約束してくださいました。集まって祈るとき主が共におられます。重要なのは、神様の御前で信じて祈ることです。信じることと祈ることは別です。どんなに一生懸命祈っても、祈りが答えられると信じなければ答えられません。


"まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。"

マルコの福音書 11章23~24節

 

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今晩分かち合いたいのは25節です。


"また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」"

マルコの福音書 11章25節


信じて祈ることはとても重要です。しかし、どんなに信じ祈っても答えられない場合があります。


なぜどんなに祈っても答えられないのか。心の中に、誰かに対して何か「結ばれているもの」があるからです。この事実を知り、みなさんがその結び目を解いたときに解決します。私ではなくイエス様が、みなさんに今話しておられます。

 

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私たちは誰に対しても、それが相手の罪だとしても、まずは赦してから祈らねばならないのです。家族や近い関係の人に、何か結ばれているような恨みや赦せない気持ちがあるなら、必ず解決してから祈らなければなりません。人は一般的に、家族を一番愛しています。家族と一番長い時間一緒にいるからかもしれません。でも結構、その家族から受けた傷が多いです。


「日本のリバイバルのために祈りましょう」と言ったら、心一つにしてみんな燃えて祈ります。一生懸命熱く祈るんです。


でも「私たちに傷を負わせた人、辛い目に合わせる人のために祈りましょう、本当に心からその人たちを赦してその人たちの祝福のために祈りましょう」と言うと、「呪わないだけでも感謝しろよ」って思うのです。


こういう思いを抱いたまま日本のリバイバルのために一生懸命祈っても、神様は聞かれません。私たちは、いつも神様のこの原則の上に立たねばなりません。


私たちの感情で信仰生活するのではないのです。私の経験でもなく、常に御言葉に従わなければなりません。どんなに誰かに傷つけられたとしても、心からその人を赦して祈ったときに、主も私たちの祈りを聞いてくださると信じてください。

 

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なぜ赦してから祈らねばならないのか。「赦しの重要性」について共に考えたいと思います。


すべての問題は、地上で私たちの方から解いたとき、解かれます。神様がなされるすべての御業を見ると、神様のさばきも祈りの答えも同じです。私たちが行った通りに、主が私たちに報いられます。


"ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。"

マタイの福音書 7章12節


私たちの方から、まず先に他人を祝福するべきなのです。恵みを受けたいなら、私が先に恵みを与えなければなりません。赦されたいなら、私が先に相手を赦さなければなりません。


問題が起きたとき、ただがむしゃらに神様の御前で祈るから解決するのではありません。そうではなく、もし問題の原因になるような要素が自分の周りにあるなら、まず私がこの問題を解決したとき天でも解かれるのです。


"まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。"

マタイの福音書 18章18節

 

地上でいろんな複雑な人間関係の問題をつないでおきながら、神様に向かって主よ解いてくださいと祈っても、まずあなたから解きなさい、そうすればわたしが解いてあげようと言われます。それが信仰生活の原則です。


メソジスト教団の創始者ジョン・ウェスレーが、ある日友達に会いました。でもその人がすごく怒っていたんです。

「私は〇〇さんからすごい傷を受けた。あいつだけは絶対に許せない」

それでその〇〇さんのことを、本当に呪ったり悪口を言ったりしたのです。

「それでも私たちは、和解して赦さなければならないよね?」

エスレーが諭すと、その人は、あいつだけは最後まで赦せないと言ったそうです。ウエスレーは警告しました。

「私はあなたの友人だから、これだけは伝えておきたい。これから先、あなたはどんなに小さな罪も犯してはならないよ。なぜならイエス様の御前に行ったとき、あなたは決して赦しを受けることができない。その小さな罪のゆえに、あなたは永遠の地獄に行くしかないんだよ」

 

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"もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。"

マタイの福音書 6章14~15節


赦されるためには、まず赦す。神様は人間関係の問題を、このように解決されるのです。


世の中に災いがある理由について、イエス様はこう言われます。


"つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。"

マタイの福音書 18章7節


つまずかせるとは、傷を与えることと思えばいいです。この世でつまずきや傷を受けたことがない人は誰もいません。反対に、相手につまずきや傷を与えたことがない人もいないと思います。人間関係が大変なのは、そのためですね。


しかし、誰にも傷を与えていないが、本当にひどい苦しみと傷を受けた方が1人います。それは私たちを作られた神様です。

 

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神様以外は、お互いに傷を与えたり傷を受けたりして生きていきます。しかし、神様は私たち人間に良いことだけをなさいました。すべてが美しく整ったエデンの園を用意し、アダムに与え、アダムのためにエバを作り与えました。


神様はアダムに「この園のどんな木からも取って食べていいよ」と言われました。でも善悪の知識の木の実だけは決して食べてはならない。食べるとあなたは死ぬと警告しました。でも結局、彼らは食べたんです。アダムとエバは神様を裏切って、大きな傷を与えたと言えます。


アダムに神様は、あなたはその木から取って食べたのかと聞きました。アダムが「本当にごめんなさい」と言って悔い改めたら、人間の運命は変わっていたかもしれません。アダムは何と言いましたか。


"人は言った。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」"

創世記 3章12節


神様、あなたがあの女作らなかったら、私はこんなことにならなかったんですよ。神様のせい、そしてこの女のせい。


神様からしたら、これは本当にありえないことだと思います。自分のせいなのに、神様のせい、そして妻のせいと言ったのです。結局、神様と人間の関係は完全に断たれてしまいました。しかし神様はこの問題をどのように解決されましたか。赦しを通して解決してくださったんです。


神様は復讐ではなく赦しを選ばれ、人間との関係を回復させるために、イエス様の死を選ばれたのです。人間関係の問題を解決する方法として、私たちにも赦しを選ぶことを主が望んでおられると覚えてください。

 

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人々はイエス様を十字架につけ、あざ笑ったり罵ったりしました。イエス様は十字架の上で、肉体的にも精神的にもどんなにつらかったでしょうか。その状況の中で、イエス様は何を選択されたのか見ていきたいと思います。


"そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。"

ルカの福音書 23章34節


神様が私たちに求めておられるのは、赦しです。すべての関係において、まずは赦しを選んで解決しなさいと言われます。でも皆さん。これは本当に死ぬくらい大変なことです。ほとんどの場合、こう言えると思います。

 

すべての悪事や間違いは相手がしたこと。私はむしろやられた側で、苦しみの中を今歩いてる。なのにそれをどうやって赦すんですか?


エス様は十字架にのぼり、死んで解決してくださいました。ですから私たちも、十字架にのぼったとき勝利することができます。本物のクリスチャンはイエス様と共に死にます。それが勝利の秘訣であると覚えてください。でもこれは本当に、文字通り死ぬほど大変なことです。頭ではどんなに分かっていても、感情がついていきません。どうすれば良いでしょう。


すべてのことを一番正しくさばかれる神様に委ねる習慣をつけていくのです。私たちの模範はイエス様です。イエス様がそういうときどうされたのか、見てみましょう。


"キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。"

ペテロの手紙 第一 2章22~23節


エス様は何の罪もないけれども罵られた、しかし罵り返さなかったとありますね。いろんな苦しみを受けたけれども脅すことをせず、とも書いてあります。どうしてそれが可能だったかというと、最も正しくさばくことができるお方にすべて任せたと書いてあります。

 

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成熟したクリスチャンには、聖書は何を要求するのか。


"もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。"

ペテロの手紙 第一 2章19~21


エス様が行かれたその道を歩むのが、本物のクリスチャンです。それを示すために、イエス様がこの地上に人間の姿で来られ、その道を行かれました。ではなぜ私たちがそうしなくてはならないのか。


神様は、イエス様がいないこの時代に、私たちクリスチャンを通してイエス様を表そうとしておられます。


エス様は実際には、霊として私たちの内側におられます。だから私たちがイエス様の道を歩むとき、この世の人たちは私たちにイエス様を見るんですね。どんなに苦しく悔しい思いをしても、イエス様がなさったように相手を赦して、すべてのさばきを主に委ねると、世の人はびっくりするのです。やっぱりさすがクリスチャンだという風に言います。

 

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"だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。"

ローマ人への手紙 12章17~19節


神様は復讐してはならないと言われます。復讐はわたしのすること。わたしが全部復讐しさばいてあげるから、あなたがたは善を行いなさい。もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。乾いたなら飲ませなさい。そうすることによってあなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって善をもって悪に打ち勝ちなさい。


クリスチャンは、この生き方がすごく重要です。私たちがどういう生き方をしているのかが、すごく重要なんです。もちろん、悪に負けてはいけません。しかし悪をもって悪に打ち勝つのもダメです。そうではなく、善をもって悪に打ち勝つ。そのとき、神様は私たちに味方してくださいます。


もちろん、自分はやられた側で、相手は私に今ごめんなさいと謝罪もしていない。それを赦すなんて、頭ではわかっててもほぼ不可能です。


でも私の心の中に、小さくても赦せない気持ち、憎しみの心、少しでも復讐してやりたいという思いがあるなら、神様から見たら2人とも同じレベル。2人ともさばかねばなりません。祈りには答えられません。

 

しかし私たちが自分の感情を殺して、約束の御言葉を信じ、相手に対するさばきを神様に委ねて赦しを選ぶなら、神様は最も正しいさばきを必ずしてくださいます。私たちは、この問題に関しては、自分の感情についていくのではなく、御言葉を信じ実践しなければなりません。

 

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ダビデは、思うままに振る舞える王様でした。にもかかわらず、ダビデにできなかったことが結構書かれています。悔しく、本当に辛かったでしょう。しかし聖書をみると、ダビデがすべての問題を神様に委ねて勝利したことが、神様の御心にかなっていたとわかります。


ダビデを王としたい民と、サウルの子イシュボシェテを王としたい民との間で、争いがありました。ダビデの家はどんどん強くなり、サウルの家は弱まっていた、そんなときです。


サウル側のアブネルという軍人がダビデを訪ねて来て「国を一つにしましょう」と言ってきたのです。ところがダビデ側に、アブネルに恨みを持つヨアブという将軍がいました。そして、ダビデが知らないところで、ヨアブがアブネルを殺し、大問題に発展します。


ただ和解のためにダビデのもとを訪れた、アブネル。「丸腰でやってきた敵の将軍を、ダビデが殺した」と悪い噂がたつ恐れがありました。そうなると、ダビデが将来王になる妨げとなります。ダビデとしては、ヨアブを捕えて殺し、すべての人に正しく弁明しなければなりません。けれども、そのときのダビデは、ヨアブに比べたら力がなかったのです。だからダビデはこう告白します。


"この私は油注がれた王であるが、今日の私は無力だ。ツェルヤの子であるこれらの者たちは、私にとっては手ごわすぎる。主が、悪を行う者に、その悪にしたがって報いてくださるように。」"

サムエル記 第二 3章39節


誤解や噂が広まるかもしれないけれども、その日ダビデはヨアブを打つことをせず、問題を神様に委ねました。神様は誤解も生じないようにはからってくださり、正しくさばいてくださいました。


息子アブシャロムの反逆から逃げたときも、シムイがダビデを本当に激しく呪いました。ダビデはこう告白しました。


"ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。「見よ。私の身から出た私の息子さえ、私のいのちを狙っている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。放っておきなさい。彼に呪わせなさい。主が彼に命じられたのだから。おそらく、主は私の心をご覧になるだろう。そして主は今日の彼の呪いに代えて、私に良いことをもって報いてくださるだろう。」"

サムエル記 第二 16章11~12節


その場で即座にシムイを殺せたにもかかわらず、ダビデはすべてのさばきを神様に委ねました。ダビデの計算がここにありました。今呪っているこの呪いが間違っているなら、神様は必ず自分に有利な判決を下してくださる。そう信じたのです。


私たちは、良いときも悪いときも、自分がさばこうとするのでなく、神様に委ねる習慣を身につけねばなりません。実際、その後ダビデはアブシャロムの乱をすぐに制して、再び王になりました。

 

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たとえ力があって復讐できるとしても、神様に委ねるなら一番早く、うまく問題解決できます。聖書には、復讐は神のなさることと書いてあるからです。


心の中に、今、赦せない心、憎しみの心があるなら、その時点でもう絶対ダメなんです。それではどんなに一生懸命祈っても答えられません。神様の命令に、今、不従順の罪を犯していることになるからです。


どんなに悔しくても、赦しを選択しようとすることが大事です。すべてを知っておられる神様が最も正しくさばいてくださると信じるのが信仰です。


自分の心を探ってみてください。未だに誰かを恨む思い、赦せない心、憎しみがありますか。あるなら、まずこれを先に悔い改めましょう。取り除かねばなりません。そして神様と、神様の約束を信じて赦しを選びましょう。信仰生活は感情ではなく、自分の意志で御言葉を選択し、一歩前に進むのです。そのとき神様の奇跡を見ます。

 

皆さんが大きな答えを受けるよう、主の御名で祝福します。