きまたまジャーナル

オーロラの海に浮かぶ氷山と、アーモンドの花冠

個人的メッセージメモ 10

エリヤのうつ病を癒す神様

ダニエル・リー師

22.10.15.

 

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"それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。"

マタイの福音書 17章1~3節

 

ここに旧約聖書の2人の人物が登場する。モーセは律法を、エリヤは預言者たちを代表している。エリヤはそれほどに神様から用いられた人物だった。


ところがエリヤは、死を願うほどのうつ病にかかる。なぜ、このように神様を愛し献身している人が、突然バーンアウトしたのだろう。

 

❶神様の指示を待てなかった


"彼はそれを知って立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、自分は荒野に、一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」"

列王記 第一 19章3~4節

 

エリヤはいつも、神様の指示どおりに動いていた。自分の考えによらず、つねに神様の指示を待ち、それを得てから動いていた。しかし状況が急変し命の危険に晒されたとき、自分の考えで動いたのである。

 

❷期待した結果を得られなかった


3年半の飢饉の間、エリヤ自身も苦労していた。カルメル山では、850人のバアル・アシェラ預言者たちにひとりで対峙したが、エリヤの祈りに神様が素晴らしい奇跡で答えてくださったので、期待感があった。エリヤの期待とは、このことを通してすべてのイスラエルの民が神様に立ち返ること、またこれまで神のしもべたちを殺して偶像崇拝してきた者たちがさばかれることであった。


しかし、エリヤの願いどおりにはならなかった。民がひとりも立ち返らなかっただけでなく、悪者はさばかれず、エリヤの命は危なくなった。エリヤは完全に失望してしまった。

 

❸いつも神様の働きをするのは自分ひとり、という思いを持っていた


犠牲を払うのは私だけ。十字架を背負うのも私だけ。エリヤには、互いに労わりあい励ましあうような同労者はおらず、孤独だった。


神様の働きを少しでもしたことがある人なら、エリヤの気持ちが理解できるだろう。しかし私たちのゴールは、誰かと労わりあい共感するところにはない。私たちは、心折れたその人たちをもう一度立ち上がらせなければならないし、自分もそこから立ち上がらなければならない。


神様は絶望に落ちたエリヤを回復させてくださる。今回はそこをみていく。

 

私たちの周囲にも、バーンアウトした献身者や、自分なりに信じてイエス様に従っていこうとしたがうまくいかず絶望してしまった人がいるだろう。私たちはその人たちを、必ず立ち上がらせなければならない。


しかし、識別すべき点がある。


①その献身者は、本当に主の働きをしながらつまずいたのか。その信徒は、イエス様を純粋な気持ちで信じてみようとしてつまずいたのか。

②それとも、彼らは、自分の罪や不従順によりつまずいてしまったのか。


①の場合には、必ず助けなければならない。②の場合は、悔い改めることができるよう導いていかなければならない。神様はすべての人に同じ対応をなさらない。


私たちは、「イエス様を信じる人たちを、神様が少しばかり寛大な心で見てくださる」と考えてはいないだろうか。事実はその反対である。イエス様を信じる人たちを、神様は高い基準を持って見ておられるし、彼らへのさばきも厳しい。人が神様を知っている、信じていると口ではいいながら悪いことをしていたなら、神様の栄光にならず、むしろ侮辱することになるからだ。

 

"私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。

外部の人たちは神がおさばきになります。「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。」"

コリント人への手紙 第一 5章11~13節

 

"もし、この手紙に書いた私たちのことばに従わない者がいれば、そのような人には注意を払い、交際しないようにしなさい。その人が恥じ入るようになるためです。"

テサロニケ人への手紙 第二 3章14節

 

教会で実際、この御言葉を行ってはいない。これをやってしまったら、全世界の教会がすごいことになる。愛がない、神を信じているのかと非難されるだろう。


しかし私たちの信仰は、天国に行くのか地獄に行くのかを分けるもの。適当に信じてはならない。命をかけて正しく信じたとき、天国に行く。教会は本来厳しいところである。


今晩のメッセージの対象者は①であることを前提に話すが、まずはその人たちを心身共に休ませて回復させることだ。

 

"自分は荒野に、一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」

彼がエニシダの木の下で横になって眠っていると、見よ、一人の御使いが彼に触れ、「起きて食べなさい」と言った。"

列王記 第一 19章4~5節

 

絶望したエリヤに神様がかけた言葉は、どのようなものだったか。


ここに、「みつかいが触った」と書いてある。近くに行かなければ触ることができない。①の人々の回復のためには、まず私たちが彼らの横に行き、私はあなたと一緒にいますよとメッセージを送るのである。手で触ると親密さ、親しみを感じることができる。

 

"すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。

エスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。"

マタイの福音書 8章2~3節

 

ツァラァトは恐ろしい伝染病だ。誰も触れたいと思わないし、家族でさえ逃げたり隔離したりする。ところが、ことばひとつで癒せるイエス様は、わざわざ触れて癒された。


ツァラァトの人は、体も心も傷を受けていただろう。このような人には、距離を近くし触れることが大切だ。そのとき心の扉が開かれる。いくら遠くから声をかけても、「あなたは私の立場になったことがないから、私の気持ちなんてわからない」と言うだろう。


多くを語る必要はない。ただ横にいてあげること、その人が心を開いて多くを語るようになるまで待ってあげることが大事だ。

 

"彼がエニシダの木の下で横になって眠っていると、見よ、一人の御使いが彼に触れ、「起きて食べなさい」と言った。

彼が見ると、見よ、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入った壺があった。彼はそれを食べて飲み、再び横になった。

主の使いがもう一度戻って来て彼に触れ、「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と言った。

彼は起きて食べ、そして飲んだ。そしてこの食べ物に力を得て、四十日四十夜歩いて、神の山ホレブに着いた。"

列王記 第一 19章5~8節

 

不便な環境にいる人、こころや体の傷を負う人には、必要を満たしてあげることが先決だ。疲れ果てたエリヤのような人に、神様の御心の話を始めないでほしい。「霊的にはね」とか、「神様の使命というものはね」とか。そのような話には心開かないからである。その人には、自分の壊れた環境や壊れた心しか見えていない。


もし金銭的に困っているなら、まず助けなければならない。言葉ではなく、具体的に満たしてあげながら待つのである。


十分に食べて飲んで回復したなら、人は聞けるようになる。そのあとは神様が御心を悟らせてくださる。そのようにして、神様に対する信頼を回復しなければならない。


①の献身者の場合、自分の払った犠牲や労苦があまりにも大きくてつまずくのではない。その点には、はじめから覚悟がある。そうではなく、犠牲や労苦に対する神様の答えがあまりにも小さいとき、人はつまずく。


エリヤの場合は、3年半本当に孤軍奮闘していた。それなのになぜ、神様はアハブ一族を完全に滅ぼさなかったのか。なぜイスラエルの民が立ち返るようにされなかったのか。なぜアハブはピンピンして、自分は死にそうな状況なのか。


私たちも、信じて努力しているのに、やることなすことうまくいかず、経済的にも苦しい状況になれば、不平不満を言うようになる。教会に年に数回しか来ないような信者と自分を比較して、耐えられないと思い、神様の公義とさばきはどこにあるのかと訴え始める。


結局、自分の思っていた結果がやってこないとき、人は神様につまずく。

 

"「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──主のことば──

天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。"

イザヤ書 55章8~9節

 

未来についてわかる者は誰もいない。神様だけが、私たちの過去現在未来すべてを知っておられ、私たちにとって最善の道と目標を設け導いておられる。だから、ときには想定外のことが起きる。「神様に対する信仰」が発揮されるのはこのときだ。今どんなことが起きていても、神様が私を最善の道に導いておられることを信じなければならない。


エリヤはこの点で失敗した。神様は彼の思いを変えていく。

 

"彼はそこにある洞穴に入り、そこで一夜を過ごした。すると、主のことばが彼にあった。主は「エリヤよ、ここで何をしているのか」と言われた。

エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」

主は言われた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」するとそのとき、主が通り過ぎた。主の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。

地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。"

列王記 第一 19章9~12節

 

今までエリヤが体験してきた神様は、大風、地震、火の中で働かれる神様だった。しかし神様は静けさの中でも働かれること、神様にはひとつの姿ではなく、ほかの姿もあることを、ここでエリヤに悟らせているのである。


これまでは、エリヤの考えるとおりの結果になっていた。飢饉の中でも継続的な供給があり、天から火も注ぎ、雨も降る。エリヤは奇跡の人だった。しかし神様は、彼が思ってもいなかったことをなさる神であることを、エリヤに悟らせたかった。

 

"主は彼に言われた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ。

また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。

ハザエルの剣を逃れる者をエフーが殺し、エフーの剣を逃れる者をエリシャが殺す。"

列王記 第一 19章15~17節

 

神様は、アハブをはじめ偶像崇拝してきたすべての人を殺し、さばきを完全に達成するためこのようにされた。


エリヤは「今すぐ」神様がさばきをなさらないことに不満を持ったが、神様は「必ず」さばかれる方である。しかし同時に、どのような悪人でも死ぬことなく悔い改めて生きることを願う方でもあるので、さばきを遅らせるのである。


人が死んだあとに受けるさばきは、取り返しのつかない永遠のさばき。私たちは感情が作動して、悪人を今すぐさばきたいと思いがちだが、神様はどんな悪人にももう一度チャンスを与えたいと願っておられる。

ここに、神様と私たちの大きな違いがある。

 

"主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。"

ペテロの手紙 第二 3章9節

 

地上では、悪人が完全なさばきに会わず、繁栄して一生を終えることもあるが、結局、死後に永遠のさばきを受けねばならない。悪人をうらやむのではなく、憐れむ心を持とう。


この反対の現象が私たちに起こる。私たちが神様のために労苦し犠牲を払っても、地上では祝福を受けられないことがある。正しく生きていても、祝福ではなく苦しみが続くように思える場合がある。それでも私たちは、天国でイエス様と永遠に生きる。しかも天国では永遠の喜びとしあわせの中で生きる。そのことを信じなければならない。


神様のなさることは、この地上で終わらず永遠に続く。私たちの最終的なさばきは、御座の前にある。もしそうでないなら、殉教者の人生は無残である。しかし聖書では、彼らは第一の復活に預かることができ、キリストと共に千年の間王となると約束された、もっとも幸いな人だ。

 

"この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。"

ヨハネの黙示録 20章6節

 

アサフという詩篇の記者がいる。彼は、義人たちがいつも苦しみを受け、悪人たちが栄えている理由を理解できなかった。そのことゆえにつまずきそうだったと書いている。

 

"けれどもこの私は足がつまずきそうで私の歩みは滑りかけた。それは私が悪しき者が栄えるのを見て誇り高ぶる者をねたんだからだ。実に彼らの死には苦痛がなく彼らのからだは肥えている。人が苦労するときに彼らはそうではなくほかの人のように打たれることもない。"

詩篇 73篇2~5節

 

"見よこれが悪しき者。彼らはいつまでも安らかで富を増している。ただ空しく私は自分の心を清め手を洗って自分を汚れなしとした。

私は休みなく打たれ朝ごとに懲らしめを受けた。"

詩篇 73篇12~14節

 

一生懸命生きているのに、いいことが起きない。正しく生きているのに、苦しみだけがやって来る。なぜこうなのかとアサフは悩む。しかしある日聖所にいるとき、神様のさばきが永遠であると悟ったのである。

 

"私はこのことを理解しようとしたがそれは私の目には苦役であった。ついに私は神の聖所に入って彼らの最期を悟った。まことにあなたは彼らを滑りやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とされます。ああ彼らは瞬く間に滅ぼされ突然の恐怖で滅ぼし尽くされます。"

詩篇 73篇16~19節

 

もし私たちが罪を犯し間違ったことをしているのに、苦しみもなくすべてうまくいっているなら、それほど恐ろしい道はない。その人は悔い改めることができないから。罪を犯しても罰を受けないので、大丈夫だと思って生きているが、ある日突然滅びが訪れ、即座に地獄へ突き落とされてしまう。


少しの過ちを犯したなら神様のムチが飛んでくる、これはありがたいことだ。私たちは安全なのである。


神様はさばかれない方ではなく、必ずさばかれる方。しかも私たちが行ったとおりにさばかれる。落胆せず最後まで善を行おう。

 

"失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。"

ガラテヤ人への手紙 6章9~10節

 

だからこそ、信じる人同士がもっと理解しあい、支え合うことも大切である。


神様はエリヤに再び使命を与える。

エリヤは、自分が今までしてきたことはすべてムダだったと考えて絶望し、死を願っていた。神様は、そんなエリヤの体と心をまず休ませて回復させ、神様のさばきと報いについて悟らせた。神様に信頼することができるよう、エリヤを作り変えていったのである。


神様は、エリヤが働きに失敗したからといって、それを取り上げたりせず、むしろ再び働きにつけるよう回復させた。世の中のこともそうだが、私たちが神様の働きで失敗・挫折するときは、心に大きな傷やトラウマが残る。思い出すたびに傷が痛み、悔しさが蘇る。後悔もあるし、否定的な考えも湧いてくる。もう逃げてしまいたいとも思う。


失敗から回復するには、それをなかったことにするのではなく、最チャレンジして克服しなければならない。だから神様は、静まり返ったところでエリヤにあらわれ、彼に預言者としての働き、人に油を注ぐ使命を与えたのである。


エリヤが直接的にしなかったことも、エリヤが油を注いだ人々をとおしてなされていったことを、私たちは聖書を通して知ることができる。これは、エリヤの不平不満の祈りに神様が答えてくださったということでもある。「私だけが残った」と嘆くエリヤへの答え、エリヤを通してすべてを成し遂げるという神様の御心。エリヤだけでなく、エリヤに油注がれた人々をとおしても神様が働くことを、神様はエリヤに見せたのである。あなただけが残されたのではない、彼らもまた働くのであり、そのほかにも七千人がいるのだよと。

エリヤのつぶやきは完全に収束した。


①の人は、まず休んでほしい。心身の回復を待つことだ。その後、余裕が生まれる。

神様がどういうお方なのか。御心はどこにあるのか。永遠のさばきと、永遠のいのち、永遠の報いについて、そのときもう一度深く黙想するときを持ってほしい。そして、神様に対する信頼が回復したとき、もう一度自分の使命にチャレンジしてほしい。


このようにして、いつも主の中で勝利するみなさんであるように、祝福をお祈りします。