きまたまジャーナル

オーロラの海に浮かぶ氷山と、アーモンドの花冠

個人的メッセージメモ 16

羊と山羊と狼

2022.2.11.

ジュン・リー師

https://youtu.be/bjDacVhuafM

 

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"私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。

あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。

ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。"

使徒の働き 20章29~31節


狂暴な狼に気をつけなさい。パウロは3年の間、毎日そう警告しました。


当たり前ですが、私たちは聖書通りに導かれていかなければいけません。パウロが3年間毎日「狼に気をつけなさい」「目を覚ましていなさい」と言ったのは、これが私たちの命に関わる大切なことだからです。厳密にいうと、永遠のいのちにかかわることなんですね。


パウロの時代に毎日警告していたのなら、私たちも毎日警告を聞き取って、目を覚ますよう努力しなければいけないのです。最近の時代は、「聞きたいことだけを聞く」「愛の神様」「赦しの神様」。しかし、本当に聖書的な主の目にかなう教会を目指すには、聖書通りでなければいけません。パウロがそうしたのなら、私たちもそれを取り入れ、御言葉に合わせて信仰生活をしたいとおもいます。


狂暴な狼がいるから気を付けなさい。パウロは毎日警告したので、私たちも毎日この狂暴な狼に気をつけ、目を覚ましていきましょう。


ではこの狂暴な狼、教会にどれくらいの割合でいるでしょうか。インタビューしてみたら、どれくらいの狼がいて、どれくらいの羊がいるでしょうか。答えは100対0です。それを聖書が教えています。100人に聞けば 100人全員、私羊ですと答えます。


"にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。"

マタイの福音書 7章15節


パウロがなぜ狼に気をつけなさいといったのか。答えはすごくシンプルです。彼らが自分たちのことを狼とは決して名乗らないからです。では、どのような素振りでくるか。どのようなフリをするのか。


聖書には、羊のふりをしてと書いてあります。羊の形をして群れに潜んでいる。だから目を覚まさなければいけないのです。


狼が狼だったら、羊が羊だったら、すぐ気がついて「私はイエス様と羊だけと交わる」ということができますね。しかし私たちの中に、羊のふりをしてやってくる狼、羊のふりをして潜む狼がいるのです。この狼は非常に悪質です。


教会の中にいる3 種類の動物を羊、山羊、狼としましょう。


羊は信者を意味していて、特徴は素直であるということです。ミスもするし罪を犯してしまったりもするけれど、示されたら素直にそれを受け止めて悔い改めを選ぶ。それが信者である羊の特徴です。


山羊は未信者を意味します。特徴は頑固さ。教会の中にいる未信者なので、ずーっと神様の言葉を聞いて奇跡も見ているんです。けれども「もしかしたら偶然の重なりかも」とか言ったりして、何かこう頑張って信じないようにしている。頑固なんです。


さて今日のメインキャラクター、狼。ポイントは羊のふりをしているということです。彼らは未信者ではなく不審者です。特徴は演技をすることです。


狼がなぜ悪質なのか。「羊の形をしている」ということは、しっかりと聖書の知識が成立しているだけでなく、本人たちも聖書は正しいと認めているのです。


狼がかっこいいと思うなら、そのまま狼でいればいいじゃないですか。それでも羊のふりをする。ということは、知識的にもこの道が本物と分かった上で二重生活を選んでいるということなんです。悪質です。


未信者には、神様の話を聞いても奇跡が現れてもまだ信じられないという、ある意味正直さがあります。私まだ信じられません、それならいいんです。狼の場合は、いや自分信じてます、自分はクリスチャンです、生まれ変わってますという風に、自分を装い嘘をついて教会にずっととどまろうとしている。ここに非常な悪質さを見ることができます。これに気をつけなさいと、パウロが言いました。


なぜパウロはそのとき、その場で指摘しなかったのでしょう?「あなたたちの中からも出てくるよ。AさんBさんCさんDさん、あなたたち正直狼ですよ」となぜその場で言わなかったのか。言っても意味がないからです。


彼らは未信者ではなくて不審者。彼らはすべて知った上で聖書を選ばない選択をしており、本当に異端的あるいは完全に悪質な存在なのです。その悪質な存在は、クリスチャンのように装い、私たちのまわりに潜んでいるということを覚えなければいけません。


不審者に言っても意味がない。イエス様でさえ、イスカリオテのユダを力ずくでとどめたりしませんでした。


だからパウロは羊である私たちに「気をつけなさい」と言ったんですね。彼らは変わらないから私たちが変わって、私たちが気をつけなければいけないということです。羊のままでいたいと思う方は必ず目を覚まして、狼に気をつけていきましょう。


じゃあ、教会に集まると狼がいるからライブ配信にしとこうとか思いますよね。間違ってはいませんが、それは山羊です。世の中で言う未信者と変わらないんです。好きな人とだけ交わって、嫌いな人苦手な人なんか無理な人には壁を作る。確かにそうしたら楽しいかもしれませんけれども、私たちの品性がイエス様に似ていくことはないんです。


"まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。

というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。"

コリント人への手紙 第一 11章18~19節


私羊なのに、なんで神様は狼を追い払ってくれないの?守ってくれないの? と思いますが、実は狼を通してこそ、本当に私たちが目を覚ますこともあるんです。


周りが全員羊だけだったら、「目を覚ましなさい」と言われてもハイハイってなるじゃないですか。狼がいなかったら寝てても攻撃されない。私たちが真摯に御言葉と信仰を受け取ることがない場合があります。だからあえて、神様が一定期間狼を許容することがあるのです。目を覚ましていれば、必ず狼から逃れ勝利できますし、また狼の存在を通して私たち自身が成長することもあると信じましょう。


神様がすべての問題から私たちを守ってくださる、すべて取り払ってくださる、あなたを王宮にずっと住まわせてあげる、守ってあげる、ではないのです。「苦しみの中にあっても強めて守ってくださる」と聖書は教えています。私たちはこの機会を通して、本当に狼に騙されず勝利していきたいとおもいます。


では、狼とは、具体的にどういう存在なのでしょう。羊の形をしてくる、羊のふりをしているということを、皆さん決して忘れないでください。特徴としては、「長い間教会に居続ける人」に狼は多く見られます。


羊のふりをするには時間が必要です。聖書もしっかり勉強し、祝福も受け、なるほどキリスト教は素晴らしい道だ、これがいい、でも内側は死にたくない、でもこれがいい。だから羊を装うわけで、信仰歴の長い人に多く見られます。洗礼したばかりの人が狼ということはあまりないです。もちろんその人が何年も通い続けてずーっと聖書を学んで、それでも真理を拒むなら狼になり得ます。けれども多くの場合、教会を長く支えている人が狼に当てはまります。


なので、まず自分が目を覚ますことがゴールデンルールです。教会に通った年数が長いイコール、信仰が優れているというわけではないのです。生まれ変わったかどうか。今日も主の御言葉に従う羊なのかどうか。ここで判断しなければいけません。


では聖書で言うと、どういう人が狼なのか。パッと思い浮かぶのはイスカリオテのユダです。ずーっとイエス様の側で御言葉を聞き、何度も羊に変えていただくチャンスがありながら、最後まで自分の道を選んだユダ。しかし今日は、産まれてからちゃんと神様が祝福する予定があったのに、そのレールがあったのにも関わらず、自分から離れたエサウ、自分で自分の道を選んだエサウという人物をみていきます。


"わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の継いだ地を荒野のジャッカルのものとした。」"

マラキ書 1章3節


霊的に見ると、神様の目から見ると、エサウは憎い存在でした。愛の神様、えこひいきのない神様がどうしたんですかというかもしれません。けれども、ここにまとめが書いてあります。


"ヤコブエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。"

創世記 25章34節


彼は長男として生まれ長子権を持っていましたが、お腹がすいたので、それを弟の一杯のスープと交換したんですね。神様はこれを、エサウが長子の権利を軽蔑したと見なしました。


聖書の約束はシンプルです。神を愛する者を神が愛すると聖書は約束しています。逆に言えば、神を軽蔑する者は神もその人を軽蔑されるということです。神様がエサウを憎んだのは、えこひいきでも、憎しみの神様だからでもなく、まずはじめにエサウが神様を拒絶したからでした。


けれど面白いことに、父親イサクはこのエサウを好んでいたと書いてあるんですね。その理由を通して、狼の特性を見ていきます。


"この子どもたちが成長したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。"

創世記 25章27節


猟師、英語ではハンターとあります。ただ狩りをする人という意味で使われる単語ではありません。狩りをするというより、罠を仕掛けるという意味合いが最も多く含まれている単語です。


どうやって狩りをするのかというと、わなを仕掛けるんですね。それで、大丈夫だよ、安全だよという風に装って、安全だと思い込ませてやっつけていくわけです。エサウはただのハンターではなく、巧みなハンターでした。エサウは罠を仕掛けるのに非常に長けていた人物ということを聖書に見ることができます。


現代風に言うと、教会で皆さんの隣にもいるかもしれない羊のふりをした狼は、罠を仕掛けるのが非常に上手なんです。罠とはつまり、惑わしです。惑わしてくるんです。私は安全、あなたにも安全という風にして惑わすわけです。どのように惑わすのか。


"イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。"

創世記 25章28節


父イサクはエサウの料理が美味しいし好きだから、彼をえこひいきしたと読めます。けれどもここで言う「彼」。猟の獲物の「彼」とは、みなさん誰を指していると思いますか。ひっかけ問題ではありませんのでご安心ください。これ、ライブ配信なので答えを言うと、「彼」はどう考えてもイサクです。日本語の文脈的に言うとイサク以外にあり得ないんですね。


けれども、20種類以上ある英語の訳の一つだけに違う訳が書いてあります。一つだけなら違うんじゃないと思うかもしれません。その訳はリテラルスタンダードトランスレーションという名前ですが、例えばヘブル語だったらそれを直訳した単語、そんな意味があります。それを読むとちょっと意味合いが違ってくるんです。今日は、あえてそれを私が日本語に直訳しました。こういう意味になります。


なぜなら彼の口内にはゲームがあったから


本当にこう書いてあるんです。英語でもゲームと書いてあります。このゲームという単語が何を意味しているのか。ハンターという単語を覚えてますか。「罠を仕掛ける」。ゲームという言語は、この単語と全く同じなんです。


イサク、エサウヤコブ。誰かハンターがいましたね。皆さん誰だったでしょうか。エサウでしたね。この「彼は」とは実は原文ではエサウを指しています。エサウの口の中に罠があったんです。なのでそれを踏まえると25章28節の箇所の本当の意味は、実はこのようになります。


イサクは エサウを愛していた。なぜならイサクはエサウのことばによって罠にかかっていたから。


先ほどの口の中にあるゲームとは、罠を仕掛けるトラップという単語で使われています。口の中に罠が仕掛けられていたんです。この罠に、父イサクはずっとかかっていたというわけです。


霊的に見ると、エサウという存在は神様が憎む不従順の子です。それにもかかわらず、なぜ族長また家長であるイサクは、ヤコブではなくてエサウを祝福しようとしたのか。エサウは巧妙な罠を仕掛けて、周りに甘い言葉遣いをしてひっかけていたのです。


有名な箇所がありますね。弟ヤコブがお父さんから祝福されたとき、エサウはこのような言葉を使います。


"エサウは言った。「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。」また言った。「あなたは私のために祝福を残してはおかれなかったのですか。」"

創世記 27章36節


エサウは騙されていないんですよ。ヤコブは父親は騙しましたが、お兄さんは騙していないです。ちゃんと一杯のスープと交換して、エサウもそれを承諾して交換したんです。なんでわざわざそんな嘘をつくのか。それが狼なんですね。ありもしないことを、嘘をついていつも自分が被害者、周りが加害者という風にして、分裂をつくっていくわけであります。


"あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。"

使徒の働き 20章30節


狂暴な狼の特徴は、いろいろな曲がったことを語って弟子たちを自分の方に引き込もうとする、でした。これを日々気をつけなければいけないと、パウロは教えています。巧妙な 言葉遣いで、まるでそれが本当かのように、安全かのように見せかけるのが非常にうまいのが狼です。ここに気をつけてしっかり識別しましょう。


この罠にかかり続けたら、その言葉を信じ続けたらどうなってしまうのか。


"イサクは年をとり、視力が衰えてよく見えなくなったとき、長男のエサウを呼び寄せて彼に「息子よ」と言った。すると彼は、「はい。ここにいます」と答えた。"

創世記 27章1節


この話の続きは、結局、イサクが死ぬ前にエサウを祝福したいということでした。本当に主を恐れている者、また識別力がある者は、主が愛するものを愛するようになりますし、主が憎む者を憎むようになります。イサクがやっていることは、まるで真逆のことでした。なぜだったのか。


視力が衰えてよく見えなくなったと書いてあります。霊的には、視力とは識別力です。物事を識別する力が衰えるとき、私たちは肉の人である狼の味方になる、狼を祝福するようになるのです。これは警告です。


私たちは日々御言葉を取り入れ、狼の言葉をけして聴いてはいけないのです。これはすごく大切なポイントです。永遠のいのちを守るために必要になってくる、識別力。結局その人たちの言うことを聞いていると、罠を仕掛けられて、知らない間に私たちは肉的な存在になってしまいます。そしてもっと肉に敏感になって、肉の発する言葉にもっと耳を傾けて信じるようになってしまいます。これにどのように勝利するかというと 、私たちも日々霊の糧である御言葉を取り入れて従順していかなければいけません。霊も育つ、肉も育つということは決してありません。肉を選べば霊以外が気になるし、霊を選べば肉が弱くなります。


勝利する方法は、イエス様の御言葉を信じ続けることです。そうすると神様が識別力を与えてくださり、このような狼に惑わされないで済むようになります。


もう一つ、とりあえずこれを気を付けておけば大丈夫ということだけちょっと分かち合いたいと思います。


AさんBさんがケンカしたとします。Aさんがあなたのところに来てBさんの悪口を言ったとしましょう。犯人は Aさんです。


先に言った人が犯人です。これ皆さん覚えておいてください。その内容が仮に本当であっても間違っていたとしても、嘘であっても本当だったとしても、まず人の悪口を他の人に言いふらす時点で、その人は羊ではないからです。人の悪口を言いふらしてる時点で、その人は神様の身体である共同体を全く気にかけていない、羊でない存在だと分かります。それとまたもう一つ、神様の羊である人は相手に辱めを与えようとはしないですね。


"だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、

供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。"

マタイの福音書 5章23~24節


問題があったとしても、自分の悪かったところを認めて謝り、和解しようとするのが本当の羊、本当の信者です。そうせずに皆さんのところに来て、あの人が…とか言ったり、変な噂を流したり、曲がったことを言って自分の味方につけようとする人がいます。自分をいつも被害者にするような人たちは、絶対に自分から悪口を言いますが、その行動自体がもはや聖書的でないということを覚えてください。


私たちも何か悔しい思いをしたとき、周りの人に内容を編集して言葉を変えて伝えてはいけません。狼たちは不審者なので、それでもやってきます。変わらないんです。彼らは近づいてきても、悪口を言っている時点でしっかりと見定めなければいけません。


本当に神様のために生きようとする羊は、ある意味狼に狙われます。そして後ろで陰口を言われたりしますが、相手が狼だから仕方ないのです。イエス様もそうでしたし、パウロも名指しにしなかったということは、霊的に見てその人たちはほとんど手遅れなのです。


その人たちが私たちを苦しめるとき、どうして主は何もなされないのかと思ってはいけません。また彼らは周りに、私が被害者あの人加害者と言いふらしたりするので、私たちもそこばかりに意識がいきがちです。なんとしてでも証拠を掴んでやろうと、その人を見てしまうものですが、それも実は神様からのテストであったりします。


私たちはどのようなときも、主を見上げれば必ず神様が平安をくださって導いてくださると信じなければいけません。そういう狼を通して、私たちも人間的な方法で解決したくなったり仕返ししたくなったりするんです。けれども私たちの内側にあるそういう性質も、神様に取り扱いを委ねていきたいとおもいます。


仮にですが、嘘をついていた証拠を突き止めたとしましょう。証人もいたとしましょう。ほらあなたが全部嘘ついてるよと言ったら、その狼たちはどうすると思いますか。謝るんです。悔い改めるんです。そしてまた後ろで悪口言うんです。なぜなら、狼は羊のふりをするために何を言えばいいかちゃんとわかっているからです。すいません、悔い改めます、もうしません、約束までしてくれます。そして約束を破ります。ですから私たちが変わるしかないんです。


狼たちが内側に強い怒りを持っていることも、聖書に見ることができます。


"憎しみを隠す者は偽りのくちびるを持ち、そしりを口に出す者は愚かな者である。"

箴言 10章18節


創世記の36章1節には、これはエサウすなわちエドムの歴史であると書かれています。


エサウエドムと置き換えてみます。エドムつまりエサウのような人に対して、神様がどのようなことを言われるのか。それはこうです。


"主はこう仰せられる。「エドムの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼が剣で自分の兄弟を追い、肉親の情をそこない、怒り続けていつまでも激しい怒りを保っていたからだ。"

アモス書 1章11節


エサウは剣で自分の兄弟を追い、肉親の情をそこない、怒り続けていつまでも激しい怒りを保っていたと書いてあります。彼らを自分の力で追い出そうとする気持ちはすごく分かりますけれども、私たちのするべきことは、自分が神様の似姿に変わることです。さばきを主に委ねる訓練をしていかなければなりません。


証拠もすべて揃っていたとしても、結局その人たちは仕方なく謝る素振りを見せ、また羊のふりをするだけなのです。神様からのテストと思いましょう。このような状況の中でも、私は主を見上げて主により頼めば、主ご自身が私たちをこの罠から、狼たちから救って守ってくださり勝利を与えてくださると信じるときです。昔も今も教会の中に狼がいる理由はそこにあります。

 

今年リビングウォーターチャーチは、聖書にあるフィラデルフィア教会のような、兄弟愛に満ちた教会になると非常に力強く信じています。そしてそのプロセスの中で、必ず神様が、本当にこの人はわたしの言葉を信じるのかと見ておられます。また、狼に「それは良くないよ」と言ったら陰口のターゲットになると知っていたとしても、共同体を思う兄弟愛の持ち主なのかどうか。というところも神様が見ておられます。

 

本当の兄弟や神様の霊に満ち溢れた人たちだけを、主が今集めている。そう私は信じています。使徒の働きでリーダーが起きました。またリバイバルが起きるために大切なことは、不信仰をなくすことと不一致をなくすことです。これを今、神様がこの教会でなしておられると、私は信じています。さばきは必ず主が行ってくださることも信じて、ただ主の導きに従って行きたいと思います。


"オバデヤの幻。神である主は、エドムについてこう仰せられる。私たちは主から知らせを聞いた。使者が国々の間に送られた。「立ち上がれ。エドムに立ち向かい戦おう。」

見よ。わたしはあなたを国々の中の小さい者、ひどくさげすまれる者とする。

あなたの心の高慢は自分自身を欺いた。あなたは岩の裂け目に住み、高い所を住まいとし、「だれが私を地に引きずり降ろせようか」と心のうちに言っている。

あなたが鷲のように高く上っても、星の間に巣を作っても、わたしはそこから引き降ろす。--主の御告げ--"

オバデヤ書 1章1~4節


これは狼に対する警告ではなく、羊に対する神様の真実な裁きと信じてください。


岩の裂け目に住む。高いところを住まいにする。これは隠しきれているということを意味しています。絶対にバレないと、彼らは非常に自信満々なんです。そして確かに巧みな猟師として、巧みな罠を仕掛けるのです。けれども神様がすべて暴かれ、すべて蔑まれるものにすると書いてあります。


本当に神様のさばきを恐れなければいけません。信者に対するさばきは確かな報いであり、不信者に対するさばきは確かな蔑みがあると聖書に書いてありますね。


この狼の存在に今やられている人もいると思います。苦しいところを通っている人もいるかもしれません。でもこのとき神様を選ぶと、神様の価値観が私たちに与えられて、その価値観によって物事を見ることができるようになります。神様の価値観はこれですね。


"草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」"

イザヤ書 40章8節


御言葉だけが永遠に続き、その他すべては過ぎ去る。悪人の存在は瞬きの間だけとあります。御言葉を信じて握って、狼と戦っていかなければいけません。


私は平和主義者だからと、見えていても言わない人は羊ではありません。神様の共同体を考えるのならば、共同体全体を健康にするために、どれだけ悪口を言われようとも攻撃されようとも、それに増す主の守りがあると信じて選択するんです。そしてただ信じるだけでなく、実際に行動に移して、本当に主が最後まで守ってくださる、必ず狼から守ってくださるということを経験するのです。


再臨の日まで狼はいますけれども、主はすべてをすでにご存じで、裁かれるのです。苦しみや迫害や攻撃や呪いを受けても、すべて喜び、主が益と変えてくださると信じましょう。