きまたまジャーナル

オーロラの海に浮かぶ氷山と、アーモンドの花冠

だましごとの哲学

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"あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。"

コロサイ人への手紙 2章8節

 

キリスト教の異端思想を、だましごとの哲学という。「だましごと」とは、例えるならトリックアートのようなもの。人の錯覚や勘違いを利用して、巧みに、あたかもそうであるかのように思わせることだ。

 

優良誤認へ導くのが「だましごとの哲学」。これには、十分すぎるほど注意を払わねばならない。なぜなら、一体どうしてこんなのに引っかかるの? というようなバカバカしい売り文句に、至極まともな人がまんまと乗せられていくものだからだ。

 

お金や時間を損した程度なら「社会勉強になったね」くらいで済むかもしれないが、永遠のいのちに関わることなら、その損失は計り知れない。正直、健康被害どころの話ではない。しかも、だまされたこと自体に本人が気づかない場合や、だまされたことを認めたくない場合もあり、そうなると本当にややこしくなる。

 

「だましごとの哲学で、だれかの捕われの身になる」とは、人がなんらかの偽りの教えにつながれてしまい、囚人のように自由を奪われた状態を指している。

 

教師が聖書の文脈を無視し、部分的に抜き出して真理として教えていくなら、案外簡単に人を支配し、だまくらかすことができる。また、聖書の比喩表現を比喩としてとらえず、安直に現実世界に当てはめて(こじつけて)解釈していくなら、まるで自分たちだけが正しく、先見者であるかのように見せかけることもできる。

 

そういう解き明かし方をすれば、聖書を利用して持論を展開する(正当化する)のはたやすく、意図的に新しい無数の教えを生み出すことも可能だ。

 

それが異端、あるいは異端の性質を孕むもののやり方である。