きまたまジャーナル

オーロラの海に浮かぶ氷山と、アーモンドの花冠

個人的メッセージメモ 14

別のイエス、異なった霊、異なった福音 2018.3.18

ダニエル・リー師

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https://youtu.be/xg1avaSKYmY

 

"私の少しばかりの愚かさをこらえていただきたいと思います。いや、あなたがたはこらえているのです。
というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。
しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。
というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。"
コリント人への手紙 第二 11章1~4節


私たちはキリストの花嫁。きよくなければ主を見ることはできない。またキリストの婚約者として、きよさを保つ必要がある。

 

サタンはいつも欺いて私たちを滅ぼそうとする。別のイエス、異なった霊、異なった福音。教会はそこから信徒を守らねばならない。


私たちの教会から、異端の教会へ移った人がいた。その教えを聞いてみたが、「十一献金を捧げれば地獄に行く」「悔い改めれば地獄に行く」というものだった。そのタイトルだけでツッコむ人がいると思うが、そんなメッセージを聞く人もあるということだ。


"すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。"
エペソ人への手紙 1章4節

 

この部分の彼らの解釈は、こうだ。

「人間は創世記1章で作られたのではなく、それより以前に作られ、霊の世界ですでに罪を犯していた」

 

彼らの教えでは、人間を閉じこめて懲らしめるために、神は天地を創造したのだという。この世で人間を苦労させ、罰を与え、悟らせる。そして救うためにイエス様を送ったと。

 

過去現在未来のすべての罪をイエス様があがなったので、一度救われた人間に罪はない。だから、救われた後も悔い改めたら、それはイエス様の贖いを否定し信じない証拠になるので、罪になる。地獄に落ちる。

 

まさに、別のイエス、異なった福音である。


私たちは、正しい福音を本当にしっかりとつかまなければならない。これは永遠の命にかかわる問題だから、本当に正しい真理を悟って、その上に立たないといけない。誰が語ってもうのみにせず、聖書にはどう書いてあるか、その観点で受け入れないといけない。そうでないと、話が外れていったときに、その論理の流れについて行ってしまう。


彼らが主張する内容は、韓国でも異端判定されている「救い派」と同じ。繰り返し悔い改めるのは、救われていない証拠だという。だから、地獄に堕ちると。

 

彼らは罪を原罪と犯罪に分ける。原罪を一度だけ悔い改めればよく、あとの犯罪はからだがあるから「しょうがない」とする。


罪とは、神と私の関係を壊すもの。まずこれをよく知ってほしい。罪の多さや種類が問題ではない。罪が関係を壊したので、イエス様が来られた。罪を、多い少ない軽い重いと解釈するから、こういう異端が起こる。そのことを覚えてほしい。


彼らは、

「人は罪の塊だからよくならないし、罪を犯し続ける」

と考える。その罪はアダムからではなく、天地創造の前の天から来るものだと。その原罪を一度悔い改めれば救われ、回復し、天国に戻れると考える。

 

愛の神はそのことを人に悟らせ、すべての罪をイエス様で完全に終わらせ、人を完全な義人とする、と教える。聖霊様を与えたのも、ただこのことを悟らせるためだと。救われた後の罪は問われない。これこそ神の素晴らしい愛、恵みの福音だと主張する。

 

彼らは、「人は一度救われさえすれば、あとは何をしても天国に行ける」と定義している。それで、聖書どおり正しく行おうとしたり、罪を犯す度に悔い改めて生きようとしたりすること自体が「律法主義的」「神を信じていない」ということになるのだ。

 

"狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。"
マタイの福音書 7章13~14節

 

彼らがその福音を信じているのはとても残念なこと。これほど広く入りやすい門はどこにあるだろうか。滅びに至る門。

 

いのちに至る門は狭く小さい。心から悔い改めないとくぐれない。また、くぐって終わりではなく続きがある。その道を最後まで行かないといけない。


第一コリント10章にはこう書いてある。

 

"にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。"
コリント人への手紙 第一 10章5~6節


旧約のイスラエルの民に起こったことは戒めで、世の終わり(今の時代)にのぞむ私たちへの教訓だと書いてある。つまり、旧約時代に起こったことは私たちにも適用される。

 

旧約聖書を読めば、自分の終わりがわかるのだ。

 

彼らの論法で行くなら、エジプトを出たすべての民はカナンの地に入るはず。しかし、ほとんどが、神への不従順により死んだ。従順した者だけが入れるのが約束の地。これが教訓だ。


守りやすい福音、聞きやすい福音だからと飛びついて、受け入れてはならない。どんなに厳しくてもいのちを選んでほしい。すぐ目の前にあって取り入れやすいからではなく、いのちに通じている教えか吟味し、違うなら、神に立ち返らないといけない。

 

聖書には、神が人を作った目的が書いてある。イザヤ書には、その目的とは神の栄光を表すため、神の栄誉を宣べ伝えるためだとある。

 

"私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。"
エペソ人への手紙 2章10節


私たちは神の作品。もともと罪人として作られたのではない。また、備えられた良い行いをするため、という目的をもって生まれた。創世記1章でも、人間だけを神の形に作った。そして、それは非常に良かったとも言った。


"神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」"
創世記 1章28節


神は人を祝福し、すべてのものを支配する特権まで与えた。それなのに、異端の人々は「神は罪人を作って牢屋を作って人を閉じこめた」と言う。では閉じ込めておきながら、「非常に良かった」と神は皮肉を言ったのか。ありえないことだ。

 

この偽りの教えは、人間本来の目的を奪い、価値なきものとするため、サタンが企んだものだ。神の牢屋から出ることだけを願う人生にはなんの価値もない。これがサタンの戦略だ。

 

アダムとエバが作られたとき、もし最初から罪人だったとすれば、彼らは神と顔を合わせられなかったはず。彼らが神から身を隠して逃げたのは罪が入ってからだった。罪を犯して関係が壊れたので、身を隠すことになった。

 

"そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、--それというのも全人類が罪を犯したからです。"
ローマ人への手紙 5章12節


アダムというひとりの人によって罪が入った、とここに明記してある。

 

地球に生まれる前に、仮に天で罪を犯したとしよう。では、私たちは生まれる前の霊の世界で、みな牢屋にいたのだろうか? これもおかしいのではないか。罪を犯したその霊は、生まれる前にどこに存在するのか。


聖書は言う。すべての人はアダムの腰にいたと。レビがヤコブの腰にいたように。神がアダムを全能の力で作ったとき、私たちもみなそこに存在していたのである。だから彼が罪を犯したとき、私たちも罪を犯したのである。

 

アダムとエバが罪を犯した後で土地がのろわれ、病と死が来た。

 

また聖書は、人の肉の思いは悪いとしているが、からだが悪いとはひとつも書いていない。

 

"あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。"
コリント人への手紙 第一 6章19-20節


私たちのからだは聖霊の宮。イエスの血潮という代価を払って買い取られたのだから、からだで神の栄光と表せとある。もっともらしい話があっても、聖書で確かめるべきだ。


ひとつ分かったことがある。たしかに、霊の世界にはじめから存在し、そこから追い出された人たちが確かにいたと。それは誰か。

 

"さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、
勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。
こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。"
ヨハネの黙示録 12章7~9節


追い出されたものたち、それは巨大な竜とその使いたちである。全世界を惑わすもの。悪魔とかサタンとか呼ばれる古い蛇のことだ。

 

蛇は尾で3分の1を引き寄せた。では、尾とはなにか。


"そのかしらとは、長老や身分の高い者。その尾とは、偽りを教える預言者。"
イザヤ書 9章15節


その尾とは、偽りを教える預言者。彼の偽りはどれほど素晴らしいか。

 

侮るなかれ、サタンの知恵・力・偽りを。天使はもとから作られ、神とともにいた。だれよりも神を知っている存在。なのにこの悪魔はどのような言葉で天使をだまし、惑わし、3分の1も神に敵対するようにさせたのか。

 

サタンの罪は、神になりたかったことだ。

 

"密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』"
イザヤ書 14章14節


失敗し天から堕ちたサタンは、人にその惑わしと偽りを吹き込んでいく。だから、善悪の木の実を食べると必ず死ぬ、と神は言ったのに、悪魔は絶対に死なないと言った。プラスアルファ、「あなたがたの目が開けると神のようになる」と付け加えた。これが怖い。サタンは、神のようになるという自分の願いを、人に入れ込んでいった。そのとき、人間の心が悪魔の言葉を受け入れて食べてしまった。


サタンの故郷は天国。どれほどそこに戻りたいことか。しかしもう戻れない。その願いを人間に吹き込んでいくわけである。福音に酷似した言葉で騙して安心させて、滅びに連れていく。

 

偽りでおびえさせられると、人は従いたくても従えなくなっていく。神の目的からだんだん離れていく。

 

悪魔はある意味天才。イエスを信じさせ、しかし地獄に連れていく。

 

たしかに信じれば人は救われる。しかし神は、イエス様と同じように私たちを成長させようとする。人々に世の光として神を表すこと。聖化、成長、献身、イエス様に似ていくこと、十字架を背負うこと、使命をはたすこと。悪魔はこれら神の目的をすべてダメにしようとする。悔い改めもさせないので、放置しておけば永遠のいのちまで奪われてしまう。

 

"あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。"
ヨハネ福音書 8章44節


父の欲望、悪魔の欲望、それは天に戻り神になりたいということ。サタンは偽り者で偽りの父。


悪魔は聖書を最初から曲げるわけではない。99%はあっているのに、肝心なところをまげて私たちの命を奪い取ろうとするのだ。悪魔の子に神の子はない。私たちは畑。神はみことばをまき、悪魔も悪魔の種をまいている。どちらをとって育てていくか。気をつけてほしい。

 

さて、律法を守ることについて話そう。


聖書にいろいろな言葉があるが、いちばん信じるべきはイエス様の話。パウロの話ではない。あいまいな難しい話を自分の都合に合わせて解釈してはならないと、ペテロも言う。イエス様の話は明確なので、そのまま受け取ればいい。私を天でさばくのはイエス様。パウロやペテロではない。


エス様はこういっている。


"わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。
まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。"
マタイの福音書 5章17~20節


わたしは律法を成就するために来た。律法はすたれない。神が語ったので、一貫しており矛盾はない。人が律法を守るように教え、自分も守るなら偉大な者と呼ばれる。私たちにパリサイ人の義にまさる義がなければ、天国には入れない。

 

パリサイ人はからだで律法を守っても、心は神のものではなかった。外側は立派でも、貪欲、偽り、淫乱が内側に溢れている人もいた。パリサイ人にまさる義とは、心でも律法を守れということだ。


人が罪を犯す領域はふたつある。からだで犯し、心で犯す。旧約の時代には、心の中はある程度いいとしていた。しかしイエス様は、心まできよくなり律法を守る者になりなさいと話した。

 

"昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。"
マタイの福音書 5章21~22節


エス様の義とは、心の中を含めたことだ。

 

金持ちの青年が去ったとき、イエス様は「金持ちが救われるより、らくだが針の穴を通る方がやさしい」と言った。また「人にはできないことです。しかし神にはどんなことでもできる」とも言われた。

 

その通りに、神は私たちにイエス様を与え、聖霊様を与えた。どんなに罪を犯しても、イエス様のところに行ってごめんなさいと言うなら赦される。聖霊様を与えたのは、罪と戦って勝利する人を作るためである。

 

救い派は、霊とからだを分離する。霊知主義・グノーシス主義ともいう。初代教会時代からある異端で、肉はどうしようもないから霊魂だけ救われると主張している。しかし、聖書は、霊肉魂すべてがきよくなることを要求する。

 

"平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。"
テサロニケ人への手紙 第一 5章23節


責められるところがなく、霊・たましい・からだが守られるようにと、聖霊様を与えた。

 

"もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。"
ローマ人への手紙 8章13節


御霊でからだの行いを殺すなら生きる。悟りを与えるためだと救い派はいうが、全然違う。聖霊により行いを殺せと書いてある。

 

"わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。"
エゼキエル書 36章27節


なぜ神の霊を私たちに与えたか。それは、定めを守り行わせるため。聖霊は神なので、私たちに悟りも行う力をも与える。

 

"偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。"
ガラテヤ人への手紙 5章20~21節


なぜ罪を一つ一つ細かく記したのか。それは、こういった罪をひとつひとつ解決するべきだからだ。神が問うのは原罪だけではない。神の国を相続できないよ、と以前もクリスチャンに言ったとある。

 

第一コリント6章、エペソ5章にも同じことが書いてある。


神の戒めを守ることは、神を愛している証拠。そのことは、ヨハネの14章には4度も書いてある。「神の戒めを守るなど不可能です」という人がいるが、失礼ながらそれは、聖霊様に満たされた経験がない人だ。頭だけの理論。

 

人間には不可能だとイエス様は言ったから、そのとおり、聖霊に満たされればわかる。満たされるなら神様しか見えないし、自分の中に愛しか溢れない。聖霊充満を求めないから問題なのだ。求めないと来ない。自然にはできない。満たされるなら、神のためにという喜びがいつもあふれる。

 

異端は、聖霊に満たされることや導かれることがわからないし、経験もないので、このような理論だけの話をするのである。


エス様が私を最後に裁く。信仰によってのみ罪が許されて救われ、救われて新しく生まれた私に、神は、神の子らしく生きることを要求される。いくら罪を犯しても、聖霊様に頼れば守れるようセッティングしてある。それを私たちがやるかどうかだ。

 

何もしなかった1タラントの人は、救い派の人と同じ。暗闇に追い出され、救われなかった。


使命を果たすことを忘れてはならない。信仰が本物かどうかは実、つまり行いで見分ける。

 

"わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。"
マタイの福音書 7章21~26節


天国には、神のみこころを行う者、従順した者だけが入れる。偉大な神の人さえ、不法をなしたら入れない。だからみことばを行う者は賢い。まるで岩の上に建てた家のよう。

 

ただ信じておしまいではないのだ。私たちは、救われた神の子供だから、律法を守り行う。守り行うことで、神の子供になるのではない。そうでないと神の目的が達成できない。

 

"このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。"
マタイの福音書 5章16節

 

でたらめな生き方をしていては、地の塩世の光にはなれない。これをみて、人々は神に栄光を帰する。私たちをとおして神をあがめ、信じるようになる。


"「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。"
マタイの福音書 22章2節

 

"ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。
そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。
そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った。
招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」"
マタイの福音書 22章11~14節


福音はイエス様により救われるもの。誰でも救われるが、礼服を着ていなければならない。この人は、天国に入ったのに暗闇に放り出され、悔しがったが、入れなかった。では、この礼服とは何だろうか。

 

"私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」"
ヨハネの黙示録 19章7~8節


花嫁はその用意ができたのだから。これは同じ婚礼のシチュエーション。麻布とは聖徒たちの正しい行いである。アーメン。