きまたまジャーナル

オーロラの海に浮かぶ氷山と、アーモンドの花冠

非本質から生じる苦い根

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キリスト教界には、非本質的なものがあふれている。

 


古くは割礼の有無。現代なら異言。直近ならワクチン。これらは一例に過ぎない。

 


非本質的なものが本質的なものに代わって信仰に結びつくと、敵意が生まれ、分断が起こる。異言を認めるか認めないか。ワクチンを打つか打たないか。マスクをするかしないか。そんなつまらないことで別れていく。

 


それは愚かで痛ましいことだ。

 


敵意は自己防衛本能から生まれる。私が敵を徹底的に排除しなければ、という心。その本能は、恐怖や猜疑心、蔑みや嫉妬心、怒りや嘲り、自己義などと複雑にからみついて根を張っている。

 


苦い根。

 


しかし、神が私という存在を完全に守ってくださるという深い信頼に根ざして生きるとき、敵意は廃棄されていく。自分で自分を守る必要がなくなるからだ。

 


聖書を読んで祈るなかで、神様が私にテーマをお示しになることがある。2月は「敵意」。それで、敵意とは何かということについてずっと思い巡らしている。ここから先はきっと、敵意を捨てなければけして通れない、狭い道なのだろう。