きまたまジャーナル

オーロラの海に浮かぶ氷山と、アーモンドの花冠

個人的メッセージメモ 8

惑わされないようにしなさい 21.9.19.

真島誠師

https://youtu.be/tVh_ZIniImo

 

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大贖罪日とは、イスラエル民族が艱難の中で主を認め、救い主として迎える叫びのとき。「主よ、あなたが必要です。救いを受け取ります」。主は、祭りごとに雨を注いでくださる。今の時期には、この大贖罪日の恵みがあふれている。


来たる仮庵の祭りには、主とともに住まい、主とひとつになる恵みがある。


「あなたがたは惑わされないようにしなさい(福音書)」とあるように、世の終わりに気をつけるべきは、惑わしの力。

しかし、惑わしの力が働くシーズンは、真理がいよいよ明らかにされ、主のご計画が実現していくシーズンでもある。


畑は、収穫間際に荒らされるのが、いちばんダメージが大きいもの。畑が実り収穫が近づいたら、かかしなどの見張りを立てる。だから終わりの時代も「目を覚まして祈っていなさい」。

 

"ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。しかし、地は女を助け、その口を開いて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。"

ヨハネの黙示録 12章15~16節

 

世に情報は洪水のようにあふれている。蛇は人々を押し流そうとする。黙示録の蛇(サタン)は創世記にも登場する。

水が真理のみことばをさすように、蛇の吐く水は偽りの言葉を表す。


終わりのときには、このことがますます明らかになる。しかし私たちは神が守ってくださることに信頼しよう。私たちが神に信頼するなら、神が私たちを守るのは簡単である。


では、どのようにして神が守ってくださるのか。次のみことばが当てはまるのではと思う。

 

"あなたの子どもたちの中に、御父から私たちが受けた命令のとおりに真理のうちを歩んでいる人たちがあるのを知って、私は非常に喜んでいます。

そこで夫人よ。お願いしたいことがあります。それは私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです。

愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。

なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。

よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。

だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。"

ヨハネの手紙 第二 1章4~9節

 

サタンは聖徒さえ惑わそうとする。

「夫人よ」

これは、教会よ、イスラエルよ、神の民よ、と読み替えられる。聖書の女は教会になぞらえられるためである。


神の命令に従い、互いに愛しあうこと。イエス・キリストの命令、唯一の戒め。私たちはこの律法のもとにあると、パウロも言っている。愛しあうことは、私たちの守るべきことであり、特権であり、責任でもある。愛しあうことで、惑わしに流されず、容易に歩むことができるようになる。


「人として来たイエス・キリストを認めない」。これはグノーシス主義で、真理から逸らさせる教え。本当のことに見えて、完全な偽り、異端である。

 

"テモテよ。ゆだねられたものを守りなさい。そして、俗悪なむだ話、また、まちがって「霊知」と呼ばれる反対論を避けなさい。これを公然と主張したある人たちは、信仰からはずれてしまいました。恵みが、あなたがたとともにありますように。"

テモテへの手紙 第一 6章20~21節

 

この「霊知」がグノーシス主義グノーシス主義は、霊は善、肉は悪という教えで、極端な禁欲主義もしくは極端な放縦を生んだ。

聖書から離れた霊体験の重視や、肉体が犯す罪は霊になんら影響を及ぼさないというバラムの教えなどがこれにあたる。


このため、グノーシス主義では、善なる方が悪なる肉を帯びてやってくることを認めない。


何か違和感を覚える教え、一見正しそうに見えて実は方向性が違う教えはたくさんある。その発信元は異端であることが多い。


世にはたくさんの惑わす情報があふれている。「多くの反キリスト」。本当に確かな情報か見極めないといけない。フェイクニュースの例として、熊本地震の際に流れた、動物園からライオンが逃げたというツイートを挙げておく。


ショッキングな内容、乱暴な口調、今までの常識を翻すような情報は、精査して確かめる必要がある。

正反対の意見はあるか。エビデンスはあるか。信頼できる公共機関の発表はあるか。公共機関には賠償や謝罪の責任が伴うので、信用がおける。


真実なみことばに目を留め続けよう。神のことばは滅びない。時代とともに変わらない。発見された死海文書でも、聖書のみことばがほぼ変わっていないことが立証された。


惑わしは、世の終わりだけでなく、世のはじめにもあった。蛇にエバが惑わされたが、終末には、そのような惑わしをものともしない聖徒が立ち上がる。


人間を殺したい、滅ぼしたいと願った蛇はエバに狙いを定めた。神から直接聞いていたアダムより、間接的にアダムから聞いていたエバの方が与し易いとみたから。そして、神のことばをうろ覚えのエバに偽りを入れた。惑わされやすいことを確かめてから狙った。


みことばを血とし肉としよう。みことばに生きよう。そして互いに愛しあうという神の命令に生きるなら、惑わされない。


イエス・キリストを見つめよう。私たちが見ているものは、栄光の十字架。だから、私たちの顔は鏡のように輝く。

 

"私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。"

コリント人への手紙 第二 3章18節

 

この栄光が増し加わっていきますように。私たちは十字架を知るなら惑わされなくなっていく。


みことばに触れ続けていくとき、私たちは見分けの力を持つ。これは聖徒が持つべき力。神のことばは希望。


惑わしには、キリストの律法を妨げようという意図がある。

 

"イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。

また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。"

マタイの福音書 24章3~6節


"また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。

また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。"

マタイの福音書 24章10~13節

 

これが世の終わりのしるしとイエス様が言われた。惑わしにより、人は互いに憎みあい、裏切りあうようになる。


そして聖書では、反キリストのあと、ニセ預言者が現れる。


十字架の道に生きよう。このようなときだからこそ、むしろ神の愛は燃え上がっていく。

 

"兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。"

ヨハネの手紙 第一 2章10節

 

つまずくことがないので、憎み合うこともない。裏切りあうこともない。


主が愛されたように、私たちも愛しあうことを願い、祈っていこう。「主よ、助けてください」と。

十字架はすべての悪しきものから私たちを守り、分離していく。私たちは喜びとして愛しあっていく。神の愛は重荷とはならない。


裏切りあい憎みあうのは、人に対する自己中心が原因である。

「騙されてたまるものか」「相手が嫌っているのなら、こっちだって」という心。敵意、疑い、嫌悪感。


そのような誘惑が来たら、私は、すべての敵意は十字架で廃棄されたという告白をして捨てる。憎しみを抱えないよう心掛けている。

 

"キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。"

エペソ人への手紙 2章14~16節

 

もちろん、蛇のように聡くあることは大事だが、それより「なぜだまされたままでいないのですか」と書いてある。

 

"そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。"

コリント人への手紙 第一 6章7節

 

愛することをやめないようにと、聖書は教えている。騙されないように生き抜いたら、愛をまっとうするわけではないはず。私たちは、愛し、裏切られるけれども、その中でみこころを成し遂げていく。


騙されやすい人がいる、肉の思いに生きると騙されやすい。詐欺にあうのは強欲だから。考えたらすぐわかるレベルの話なのに、損得勘定が先だって、正常な判断力を失ってしまう。


御霊の思いにより歩み、守られよう。十字架の道に歩むなら、大水は私たちを押し流すことはできない。

 

"自分の愛する者に寄りかかって、荒野から上って来るひとはだれでしょう。私はりんごの木の下であなたの目をさまさせた。そこはあなたの母があなたのために産みの苦しみをした所。そこはあなたを産んだ者が産みの苦しみをした所。

私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。

大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。"

雅歌 8章5~7節

 

りんごの木とは、いのちの木、十字架を示す。「目を覚ます」とは、クームという単語で、復活を意味する。

私たちはりんごの木の下で目を覚ます。すなわち、十字架において復活を体験する。


ここは「生みの苦しみをした場所」。新しいいのち、イエス様のかたち。十字架はこれを生み出すもの。

だからここで投げ出してはならない。痛みを覚えるほどに愛していく。それをイエス様が選んだから。


愛するとは痛むこと。しかしその先には脱出もある。そこでイエス様は待っていてくださる。