きまたまジャーナル

オーロラの海に浮かぶ氷山と、アーモンドの花冠

とりなすとき、目を留めるべき点

他人のためにとりなして祈るとき、

まず何に目を留めるべきか。

 


その人の行っている罪、あるいは

その人を取り巻く状況、あるいは

直面している問題の深刻さだろうか。

 


答えは、

「その人と神様との関係性」

ではないかと思う。

 

 


誰かの罪を見てしまったとき、

自分の心の奥には

御言葉が思い起こされ、

深い葛藤や嘆きが生まれる。

 

 

しかしそのとき、

自分には明確に見えているから、

自分には正しいことが判別できるからと

心ひそかに満足してはならない。

 


その人を蔑んでも、憎んでもいけないし

間違いを性急に指摘し

責め立ててもいけない。

また、信頼できる誰かに

祈り課題としてシェアしてもいけない。

 

 

それらは御霊を痛ませることだ。

 


私が「見える」のは、とりなすため。

神は私に祈りを求めている。

誰でも、他人のことなら

よく俯瞰できるものだ。

 

 

罪があるところには

必ず関係性の死があるので、

そこにフォーカスして

御言葉を固く握り、

その人のために、神に

あわれみといのちを願わなければならない。

 

 

罪そのものに対してではなく

人と神との関係性にフォーカスすること。

その大切さが、

最近少し分かるようになった。