見分けたら、次に何をすべきか。
それぞれの信仰の段階に応じて、
松竹梅コースがあるように思う。
梅:(一般的見分け)
すべての悪を避ける
私たちは神によりきよめ別たれたもの、
区別されたものなので、
まずは善悪を識別し
徹底的に悪から身を避ける必要がある。
"御霊を消してはいけません。
預言を軽んじてはいけません。
ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。
あらゆる形の悪から離れなさい。"
テサロニケ人への手紙 第一 5章19~22節
竹:(やや高いレベルの見分け)
牧者についていく、あるいは逃げる
牧師のメッセージを聴くなかで、
また牧会に反映されている
牧師の考え方(心の声)を知る中で、
この判断が必要となる場合がある。
本当に自分の命を守る牧者なのか、
それとも雇人の牧者に過ぎないのか。
牧師を愛し従順しながらも識別し、
身の振り方を決めねばならないこともある。
"門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。
羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。
しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです。」"
ヨハネの福音書 10章3~5節
松:(高いレベルの見分け)
見分け、とりなしの涙を流す
これは預言者の働きであると思う。
聖霊が分け与えてくださる神の心のままに、自分も神とひとつになる思いで、現状に心痛め、夜も昼も涙を流す働きである。
この立場が与えられた人は、幸いな人である。そこにとどまり、聖霊とともに激しく心痛めなければならないが、その人の苦しみには報いがある。
"あなたは彼らに、このことばを言え。『私の目は、夜も昼も涙を流して止まることのないように。おとめである娘、私の民の打たれた傷は大きく、それは癒やしがたい、ひどい打ち傷。"
エレミヤ書 14章17節