聖書は、使徒言行録やコリントの手紙の中で、異言について言及している。
異言は、9つある「御霊の賜物(※聖霊によって与えられる超自然的な能力)」のひとつで、祈るための特別な言葉である。御霊の賜物は、ほかに次のようなものがある。
1. 知恵のことば
2. 知識のことば
3. 信仰
4. いやしの賜物
5. 奇跡を行う力
6. 預言
7. 霊を見分ける力
8. 異言
9. 異言を解き明かす力
"ある人には御霊を通して知恵のことばが、ある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられています。ある人には同じ御霊によって信仰、ある人には同一の御霊によって癒やしの賜物、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。"
コリント人への手紙 第一 12章8~11節
聖書には「からだ」という概念が出てくるが、御霊の賜物も、教会がキリストのからだとして一致して生きるために、分け与えられるものである。
教会においては、一人ひとりがバラバラに存在するのではなく、お互いを必要とする深い関わりの中で、あたかもひとりの人であるかのように存在する。
"皆が癒やしの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。"
コリント人への手紙 第一 12章30節
そのような視点でここを読むと、賜物はやはり分け与えられるもので、異言もクリスチャン全員が話すものではないことがハッキリわかる。
異言を語るからといって、別にその人が正しい信仰を持っているわけではないし、きよいわけでも、優れているわけでもない。
また反対に異言を語らないからといって、その人がまだ新生していないとか、神様からちょっとしか愛されていないとか、劣っているとかいうわけではない。
超自然的であり、目に見えるものなので勘違いしがちだが、異言を含めた「御霊の賜物」と、その人の在り方はまったく無関係なのだと思う。
"わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』"
マタイの福音書 7章21~23節
むしろ、ここに書いてあるように、ある人が異言を話したり、異言を解き明かしたり、奇跡やいやしを行うことができたりしたとしても、死後のさばきにおいて、イエス様から「わたしはおまえを全く知らない」と拒絶される可能性もある。
…こわぁい(心の声)
人間は、偉大な能力を持つ人に惹きつけられるもの。私自身もそうだ。しかし御霊の賜物は、他者との愛の関係性なしに、主ご自身を伴う愛のあゆみなしに、人間の自由意思によって使いこなせてしまう能力なのである。そして、それをどんな動機でどのように用いても、人はその結果をいつか、正確に刈り取ることになる。
先日の異言の解き明かしにおいて、「もう心配するな」と言われたので、心配しないつもりだが、これが私を慎重にさせる理由のひとつだったりする。
尊敬に値する神の器が、誰の目にも明らかな油注ぎを持つ華やかな神の働き人たちが、道半ばにして次々とコースアウトしている。彼らが再びレースに戻ってくる保証は、どこにもない。
果たして私はどうだろうか。
教会を建てあげるために御霊の賜物を求めるべきだし、それが素晴らしいプレゼントであるのは間違いない。けれども、御霊の賜物には、触れた人の内側を暴いてしまう「指輪物語の指輪」にも似た側面があると思う。神様の前を歩むとき、私は毎秒毎秒、自分の心の深みを測られ、そこに何があるのか試されている気がしてならない。
…そこに愛はあるんか?(心の声)
主よ。私はあなただけを見つめていますか。どうか私をあわれんで、真っ直ぐにしてください。
"わが神よ。あなたは心を試される方で、真っ直ぐなことを愛されるのを私はよく知っています。私は直ぐな心で、これらすべてを自ら進んで献げました。また今、ここにいるあなたの民が、自ら進んであなたに献げるのを、私は喜びのうちに見ました。"
歴代誌 第一 29章17節