きまたまジャーナル

オーロラの海に浮かぶ氷山と、アーモンドの花冠

個人的メッセージメモ 24

内住する油注ぎと臨む油注ぎ

2023.8.25

ダニエル・リー師

 

https://youtu.be/f34BtlxjQ3o?si=vWGIakLkkECPsv28

 

 

神様がある人を特別に任命するときや、他の人から区別するとき、また神の働きをさせるためご自分の力を注ぐとき、「油を注ぐ」という表現が使われる。旧約聖書の時代は、預言者を任命するとき、実際に体へ油を注いだ。預言者に神の働きをさせ神の計画を成就するため、そのようにしたのである。

 

イエス・キリストとは、「イエスは救い主」という意味だが、ヘブル語では「油注がれた者」という意味だ。


神の働きに携わりたいと願う人が一番欲しいのは、この油注ぎ。今日は油注ぎについて見ていきたい。

 

神の油が日本の誰かに注がれたなら、1日にして日本を総福音化することも可能になる。若いブラザー・ヒョクを有名にしたのも、彼にある油注ぎ。だから人はみな油注ぎを求めたがるが、以下、本当に重要なことを伝えたい。

 

油注ぎには2つの種類がある。まず1つ目は、「内住している油注ぎ」。2つ目は「上から注がれる油注ぎ」。私たちが本当に求めるべき油注ぎはどちらだろう。

 

1.「内住している油注ぎ」

"あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、みな真理を知っています。"

ヨハネの手紙 第一 2章20節

 

"しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。"

ヨハネの手紙 第一 2章27節


聖書には、私たちのうちにはすでに油注ぎがあり、それが真理に導くので、誰かから何かを教わる必要はないとある。また、その油注ぎが教える通り、イエス様の中にとどまりなさいと教える。


この油が「内住している油注ぎ」である。神の働きとは全く関係のないもので、人が本当に救われ、生まれ変わるとき与えられる。この油は、私たちを常にイエス様の中にとどまらせる。


"幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。"

ヨハネの手紙 第一 2章18節


ずっと読んでいくと、こういう記述がある。反キリストは何を強調し何を教えるのか。


反キリストは、まずイエス様が神であることを否定する。イエス様が人間として来られたことも否定する。そういう教えにずっと耳を傾けていると惑わされていくから、「この人はこう言い、あの人はああ言う。しかしあなたがたはそのような言葉に耳を傾けず、内なる油注ぎが導くイエス様のもとにとどまりなさい」と教えているのだ。


人が本当に生まれ変わるなら、内側に聖霊様が来られる。神を信じられるのは、(聖霊による)啓示が与えられるからで、信じられる人は、天地万物を神が創造されたことを疑わない。聖書が本当に神の言葉であることも信じられる。イエス様は神なのに人として来られたということも信じられるし、その方が私の罪の代わりに十字架で死なれたことも信じられる。イエス様の死も、復活も、私のためだと信じられる。


誰かに教わったから頭でわかるのでなく、ただわかるようになる。内側にそのための油注ぎがきて、理解できるのだ。だからヨハネは、「油注ぎがきてイエス様が悟らせてくださった通りに、そのまま信じなさい」と言った。


油注ぎが本当にきたら、人は生まれ変わり、霊的幼子になる。すると3つの現象が生じる。


神様をもっと知りたい、聖書を読みたい。読むようになるし、自然に祈りに導かれる。そうして神への信仰が芽生え、愛が芽生えていく。つまり内住の油注ぎとは、私たちと神の関係を指す。父なる神の子とされた、その関係である。


"そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。"

ガラテヤ人への手紙 4章6節

 

これはまさに、赤ちゃんが生まれたとき起こる現象と同じ。赤ちゃんは、乳を求め、誰より親を慕い求め、愛するようになっていく。人が霊的に生まれ変われば、必ず神に対する飢え渇きがもたらされる。そのとき聖書を読んで祈っていくと、どんどん成長し、会ったこともないイエス様への信仰が増していく。愛も成長していく。


油注ぎの目的は、人をイエス様の中へ正しくとどまらせること。油注ぎは、神との親密な深い関係に導く。私たちの霊はどんどん強くなり、自然に成長していく。


もし人が罪を犯し、神への飢え渇きを無視し続けて他の道に行くなら、神との関係は希薄になる。聖書も読まない、祈りもしない。そうすると自然に世のもので汚染されていく。


私たちの魂は、肉を通して世の影響を受けることもできるし、霊を通して神の影響を受けることもできる。新生したての魂は、神に大きく影響され、恵みを受け、涙を流して悔い改め、神を慕い求める。神を探し続けるなら、誰でも素晴らしい生き方ができる。でもほとんどの人は最初だけで、また世に引き寄せられていく。魂は汚染され、世を求めるようになっていく。


病時は食欲が落ちるが、霊的に汚染されたときも、神への飢え渇きがなくなっていく。御言葉を読むこと、祈ることが義務となり、御言葉に疑問を抱くようになる。そして、本心では神よりも世を愛するようになっていく。こういう症状があるなら、霊的病いにかかっている。ほおっておけば、神よりも世の方に行こうとする。そうなると、永遠の命も危うい。必ず病いを治さねばならない。


神との関係を正しく築き上げ、イエス様の中にとどまらせるのが内住の油注ぎである。

 


2.「上から臨む油注ぎ」


"しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレムユダヤサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」"

使徒の働き 1章8節

 

"皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。"

コリント人への手紙 第一 12章7節

 

上から臨む油注ぎとは、御霊のあらわれのこと。知恵の言葉、知識の言葉、霊を識別する力。信仰、奇跡、病の癒やし。そして異言やその解き明かし、そういったものは神の働きのための油注ぎである。


神はこの油注ぎを与えて、人々の病を癒したり祝福したりしてくださる。ほとんどのクリスチャンは、油注ぎと聞くと、「上からの油注ぎ」をイメージする。素晴らしい神様の御力のあらわれである、この油注ぎを本当に欲し、断食し必死に追い求める。


"あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。私は今、はるかにまさる道を示しましょう。"

コリント人への手紙 第一 12章31節


上からの油注ぎは熱心に求めねばならないが、ここに「さらにまさる道を示しましょう」と書いてあり、13章が出てくる。


13章には、賜物は愛の中で追い求めることが大切で、本物の愛がなければ、山を動かすほどの信仰があっても無意味と書いてある。この点に注意してほしい。


上からの油注ぎがなければ伝道は難しい。神の働きをするには、上からの油注ぎを一生懸命求めねばならない。しかし、上からの油注ぎは、内住の油注ぎがなければとても危険だ。


神は、内住の油注ぎが強くなった人にだけ、上から油を注がれる。毎日、神だけを信頼し、神だけを求めて生きる人に油が臨む。その信仰と愛が神に認められた人にだけ、油注ぎをくださる。


上からの油は誰にでも与えられるのではなく、神が信頼する者にだけ注がれる。神もその人を信頼しなければいけないからだ。


もしあなたが「力をください」と40日断食したとしても、神があなたを信頼しなければ、油は注がれない。あなたが本当に心から神を慕い求めて愛するなら、注いでくださる。油注がれたその時から、その人は病気を癒し、悪霊を追い出し、奇跡を行うようになる。しかし、その上から来る油注ぎは、ミニストリーを行う者のためではなく、ミニストリーを受ける人のために与えられる。


他人の悪霊を追い出す。他人の病を癒す。そして、イエス様がキリストだと伝えていく。この油注ぎは、その人の内にある油注ぎを通して訪れる。


上からの油注ぎとは、大きな箱にたくさん入った、神の賜物のプレゼントのようなもの。悪霊追い出し、奇跡、その他いろんな素晴らしいプレゼントが箱に溢れんばかりになっているが、それらはすべて、内住の油注ぎという柱が支えている。


中の柱が弱いのに、重く力強いものを載せることはできない。偉大な神の油注ぎを求めるなら、内なる油注ぎも偉大で力強くなければならない。また、上からの油注ぎを維持するには、内なる油注ぎも力強く維持しなければならない。


働きの途中で、自分の内なる油注ぎが弱まると、上から強く臨んだ油注ぎが人を押しつぶし、そのまま押し倒して消してしまう。これが、賜物を熱心に求めねばならないが、(主との)愛の関係の中で追い求めよ、というみことばの意味になる。

 


20代の頃から力強く主に用いられていた、B牧師という人がいた。集会はいつも素晴らしい臨在があり、数えきれない病の癒しと奇跡が起きていた。しかし60代になって、彼の家庭に大きな問題がおき、本当に苦しい日々が続いた。神との交わりはおろそかになり、以前のような大きな感謝と喜びがないまま働きを続けていた。


B牧師自身不思議に思っていたのは、働きのための油注ぎを神に求めると、力強く油が注がれ、集会で大きな奇跡と病気の癒しが起きること。だから、神の働き自体は変わらず行えたが、それは苦痛と重荷であったので、自分は牧師をやめるべきではないかと悩み、ある先輩牧師Aに正直に打ち明けた。


経験豊かな年配のA牧師はこう言った。


神様は、ご自分との関係から、人に油を注ぐ。神様と私たちの関係が深くなればなるほど、親密になればなるほど、内なる油注ぎは力強くなっていく。これは神様との愛と信頼の油注ぎであり、これによって御霊の実も結ばれていく。


成長するなら、神様はその人に注目し信頼し始める。そして上から油注ぎを与えて、神の働きをさせる。


上から臨む油注ぎは、御霊の力であり賜物である。その働き人への尊敬を会衆に起こし、奇跡を行わせる。しかしそれは働き人のためでなく、奉仕を受ける人のための油注ぎ。働き人の上にどんなに力強い油注ぎが来ても、その人の肉と魂に影響を及ぼすだけで、霊には影響しない。


会衆の中には、病の癒しを受けるべき人や、悪霊が追い出されるべき人がいる。それで、ある働き人の霊的状態が悪化しても、神は最後まで、会衆のために用いることがある。

 

あなたが上からの油注ぎによって他人の霊を解放できても、自分の霊の状態を良くすることはできない。あなたの霊的状態が悪くても、会衆のために神様は油注がれる。あなたのためではないから、あなたはこの働きをすぐにやめたほうがいい。

 

A牧師は、「働き手が勘違いするのが、まさにこの部分」とも言った。自分の霊的状態は悪いのに、悪霊を追い出し病を癒し預言もするから、神様はまだ私を認めていらっしゃるんだと勘違いしていく。本来は自分の悪化した部分を改善すべきだが、そのまま働きを続け、やがて大きな問題に当たって完全に倒れてしまう。


だからA牧師はB牧師に、「今すぐ働きをやめ、まず神様との関係を回復してください」と言った。「働きを続けるなら、上から臨む油注ぎにより、あなたは完全に倒され滅びてしまいます。一つ分かりやすい例えがあるので、簡単に伝えます」と。

 


警告として、A牧師はトッド・ベントリーの話を持ち出した。彼はカナダ人で、当初は本当に素晴らしい癒しと奇跡を行い、ペンサコーラやトロントリバイバルに匹敵する働きになると言われていた。


しかしトッド・ベントリーは、その4ヶ月後に発覚した女性問題で離婚し、働きもやめることになった。素晴らしい奇跡の働きの最中にも、女性問題はあったという。


なぜそんな状態にもかかわらず、素晴らしい奇跡が起きていたのか? その奇跡は悪魔の力によってなされたのか? これが皆の疑問であった。


それについて、A牧師は説明した。

 


トッド・ベントリーは罪を犯し、神様との関係が悪化していたが、神様には神様のご計画と目的があった。彼を通して癒しを受けるべき人や奇跡を体験するべき人がいたからこそ、神様は上から油注いで働きを続けさせた。しかし上からの油注ぎは、彼と神様との関係を回復させるためのものではない。それで、トッド・ベントリーの霊的状態はどんどん悪化し、悪霊も一緒に働くまでになった。彼は識別できない状態に陥り、その後すぐ彼のすべての働きは中断された。

 

"その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』"

マタイの福音書 7章22~23節


ほとんどのクリスチャンは上からの油注ぎを切望する。油が望むと、病を癒したり奇跡を行ったり、1日にして有名人になったりするからだ。


御霊の実を結ばせ、神様とさらに深い関係を築く内なる油注ぎは、そういった御霊の賜物ほど熱心に求めない傾向がある。しかし、私たちが本当に心から求めるべきは、内住する油注ぎであり、さらに神様との交わりを深めていくこと。なぜなら、さらにきよくなって神様に対する信仰と愛が成長するようになるからだ。


皆さん。自分が大きく用いられることに注目しないでほしい。用いられるかどうかは、神様の御心によるのである。私たちは神様だけをもっと愛し、神様だけを求め、関係をさらに深めようと努力しなければならない。ここにすべてがある。


内なる油注ぎこそ、良いものを運び、素晴らしいものを維持する柱。もし上からの油注ぎが来たら、誰でも一躍有名人になる。忙しくなるし、あらゆる富と人気と名誉も爆発的にやってくる。でもそのときこそ本当に気をつけねばならない。


内なる油注ぎに集中して、神様との関係をさらに深く親密にしていかなければならない。なぜなら、この素晴らしい油注ぎを受けた人はすべてのものが満たされ、心も高ぶる。すると内住の油注ぎは弱まり、最終的には、上から臨む油注ぎの維持もできなくなる。それで倒れた人はたくさんいる。


働きであっても、油注ぎであっても、神様よりも愛するものがあってはならない。ただ神様だけを愛し信頼して、慕い求める私たちになるよう、主の御名で祝福します。