きまたまジャーナル

オーロラの海に浮かぶ氷山と、アーモンドの花冠

個人的メッセージメモ 23

実によって彼らを見分けることができます2022.2.18. ダニエル・リー師

https://youtu.be/MZGFfmoYgeM

 

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「終わりのとき、神様はこの地に大きな恵みを注いでくださる」と多くの方が言います。そして預言者たちも、イエス様が来られる前の収穫として大リバイバルがあると言います。私もそう信じます。


リバイバルのときには、不治の病が癒されたり、なかった目玉や手足がもう一度できたりといった、かつて見たことのない奇跡もあるでしょう。奇跡を通して多くの方が神様のみもとに立ち返ると信じます。主の大収穫のために、心合わせて一生懸命祈らなければなりません。


しかしそのときには、偽預言者も出てきます。聖書には、聖徒をも惑わそうとする「終わりの時代の惑わし」について書かれていますが、光が強くなれば影も濃くなるという原理と同じです。   


"偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。"

マタイの福音書 24章24節

 

マタイ24章を終末の章と言いますが、もっとも気をつけよと強調されているのが偽預言者です。どのように識別すれば良いのかについて分かち合いたいと思います。


一般的に、大きな奇跡を行ったり、預言したりする人を見ると、あの人は間違いなく神の人だと思いがちです。賜物は神様がくださらなければ用いることができませんから、そう思うのも間違いではないです。しかし、ある人に本当に素晴らしい賜物があるからといって、神の人だと断定するのは間違いです。


以前の私は、正直この部分をよく知りませんでした。


エス様を信じたての頃は、優れた賜物や素晴らしい奇跡を見ると、あの人は100%信頼できる神の人なんだなと思っていました。なぜなら、神様がくださらない賜物を勝手に自分が使うことはできないはず。神様がこの人を認めているからこそ、こういう素晴らしい賜物をお与えになった、と思っていたのです。


その後、信仰生活の中で、本当にたくさんの働き人に会いました。そしていろんな疑問が生まれました。賜物には優れていても、高慢な人、金銭感覚つまりお金の管理や使い方が本当に不正な人、品性がなっていない人。たくさんいました。


これをどう解釈すればいいのか、またそういう人にどう接すれば良いのか。そんな疑問が生まれたのです。


素晴らしい奇跡を行うある牧師先生とは、個人的にもよく会って話す関係になりました。しかし、次第に牧師先生の口調や態度、特に献金の使い道がすごく疑問になったのです。また御言葉の解釈においては、失望ではなくて絶望に近いときがありました。何度もそういう絶望的なメッセージをされていたので、本当にどうしようかと悩んでいました。


今、冷静に考えると、正直、その牧師先生には偽預言者に当たる部分が多かったのは事実です。結局この牧師先生は、それから2年後には牧会を全くできない状況になり、辞めてしまいました。


今晩皆さんと分かち合いたいのは、その牧師先生も最初から偽預言者ではなかったということです。その方も神様から大きな恵みを受けて、救いの感激があって、自分自身を神様に捧げた人だったのです。


しかし変質してしまって、最後はそういう道をたどりました。人は誰でも変質する危険性があることを覚えなければなりません。私は大丈夫だと断言できる人は誰一人いません。


もし私たちの周りで変質しつつある人を見るなら、その人たちが完全に変質してしまわないよう食い止めなければなりません。私自身も、変質しないよう本当に気をつけていなければならないです。


福音伝道には絶対的な神様の力が必要です。


"しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレムユダヤサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」"

使徒の働き 1章8節


伝道する前には聖霊充満になって、力も受けなければなりません。素晴らしい賜物を持って伝道を一生懸命している方がいれば、その方たちを尊敬して助ける必要があります。それがともに働くということです。


すごい賜物を持つ人たちを見るたびに、この人は偽預言者なんじゃないかと思う必要は全然ないです。なぜなら時間が経てば、その人には必ず実が結ばれていくからです。


人をどのように識別すれば良いのか。イエス様はこのように教えました。


"偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。"

マタイの福音書 7章15~16節


木が実を結ぶまでは時間がかかるもの。だから、はじめは見分け方が分からない。しかし時間が経てば必ず実を結ぶので、ちゃんと実ったときには正確な判断をしなければなりません。


この人には絶対ついていってはいけないな。この人のようになってはいけないな。

正確に判断しなければなりません。


いろんな見分けがあります。大きく3つのことについて話します。


1番目の重要なポイントは、「人々をどこに連れて行こうとしているのか」です。


預言者、また偽預言者になりかけている人の特徴があります。自慢がすごいのです。たとえば「40日の断食を何回やりました」。もちろん、人々を励ますために断食の話をすることはあります。でももしそれが自分を大きく見せようとする自慢なら、ちょっと怪しいと言えます。私には、こういう賜物ああいう賜物がありますよ。大きいあの働きに携わっていますよ。


昔、ある人と名刺交換しました。そうしたら、裏に「四十日断食何回」そして「受けた賜物何何」って書いてあったんです。もちろん素晴らしいですけれど、それはちょっとずれてるんです。


そういう人たちの前で、他の有名な牧師先生あるいは働き人たちを紹介したり褒めたりすると、すごく嫌がるんです。嫉妬、妬み。なんとなくその人たちを見下して、自分より下げようとする。とにかく、とりあえず自分が一番すごいんだと強調するんです。なぜでしょうか。


結局こういう人たちは、人々をイエス様の方にではなく、自分に引き寄せようとしているのです。


使徒パウロは、おそらくすべての賜物を得ていたからこそ聖書を書けたし、素晴らしい霊的体験もしました。そういう霊的体験を、パウロがどのように記録しているか見てみましょう。


"私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示の話に入りましょう。"

コリント人への手紙 第二 12章1節


パウロは、主の啓示と幻を語るのが「無益なこと」だと書いています。でも本当にいろんな人が自慢しあっているから、私は仕方なく話すのだと言うのです。


"私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。"

コリント人への手紙 第二 12章2節


この手紙を書く14年前に、使徒パウロは第三の天にまで引き上げられたのですが、これを「ある人が」というふうに話しています。


本当に驚くべきことを体験したにも関わらず、14年後に、しかもあたかも自分じゃないかのように体験談を話すのです。何のために、パウロは他人の話のように言ったのでしょうか。


"たとえ私が誇りたいと思ったとしても、愚か者とはならないでしょう。本当のことを語るからです。しかし、その啓示があまりにもすばらしいために、私について見ること、私から聞くこと以上に、だれかが私を過大に評価するといけないので、私は誇ることを控えましょう。"

コリント人への手紙 第二 12章6節


私たちは、つまらないことであっても、人に認められたいと思って自慢しますね。しかしパウロは、人が自分を過大評価するといけないからと隠したのです。これが真の神の人の態度です。


人々を識別するときに最も重要なものは何か。それはその人のメッセージです。


牧会者なら、誰でもイエス様について話します。しかし話すとき、本当の内側、人々が自分をどのくらい偉大な人物であるか見て欲しいということの表れとして語る場合もあります。


メッセージを聞いた人々が、イエス様を見てわぁっというのではなくて、その人を見てわぁっとなり、その人を慕い求めその人についていこうとし、その人に何かを良いものを捧げようとする。その場合は、本当に本当に気をつけなければなりません。


パウロの時代に、すでに偽預言者や偽教師はいっぱいいました。それもあって、パウロは心配して手紙を書いたのです。


教役者から個人的に褒められ愛された人は、その教役者を本当に素晴らしい人だなぁと思い、良い印象を持ちます。

 

しかし皆さん。誰かが自分に良いことをしてくれたからといって、いい人だと信じてはいけません。いつでも識別する必要があるのです。その人のいいと思う部分は何なのか。今良いことをしてくれているのは、私たちをその人に引き寄せるためか、それともイエス様に向かわせるためか。この識別をしっかりしなければならないのです。


"それでは、私はあなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。"

ガラテヤ人への手紙 4章16節


パウロは正しいことをたくさん言いました。

聞きたがらない人は、パウロを嫌います。しかし、ある人たちはその人たちにすごい優しい言葉をかけました。


"あの人たちはあなたがたに対して熱心ですが、それは善意からではありません。彼らはあなたがたを私から引き離して、自分たちに熱心にならせようとしているのです。"

ガラテヤ人への手紙 4章17節


"そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。彼らは、滑らかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましています。"

ローマ人への手紙 16章18節


ある人が個人的に良い言葉をくれたとしても、大きな奇跡を行ったとしても、その人が私たちをイエス様へ導こうとしているのか、自分に引き込もうとしているのか、しっかり識別しなければなりません。


本物の神の人は、自慢して自分を表したり、人を引き寄せようとはしないのです。たとえどんなに素晴らしい人でも、人間は、永遠の命を与えることはできない存在です。


真の神の人は、とにかくイエス様が真理で、イエス様だけに人を導こうとします。イエス様はすべてであり、イエス様に導く。バプテスマのヨハネがまさにそういう人でした。


"『私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。"

ヨハネ福音書 3章28節


ヨハネが現れたとき、あなたこそキリストですか? とみんな集まってきましたが、ヨハネは明確に「私はキリストではありません」と伝えました。


"あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」"

ヨハネ福音書 3章30節


パウロも同じでした。


"私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。"

コリント人への手紙 第二 4章5節


その人の語る言葉が私たちをどこに向かわせているのか。これで、明確に識別できます。

 

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2番目のポイントは、「献金や金銭的な問題」です。


私たちは皆、聖書に書いてある1/10献金また感謝献金は必ず捧げなければなりません。献金によって神の教会はきちんと運営され、礼拝が守られ続いていくし、教会を通して福音伝道することで、神の教会が拡張していきます。献金を捧げること自体が、福音伝道にともに立つことになります。


教会もまた、献金に関する管理を徹底的に正しく行わなければなりません。多くの教会でこの献金の問題の故にトラブルが生じるのですから、この部分は正確にちゃんとやっていかなければなりません。


教役者が御言葉のメッセージと祈り、奉仕、そして礼拝伝道といったことに専念していけるよう、十分な謝礼をすることも正しいことです。


エス様も伝道している弟子たちに、このように教えました。


"袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい。働く者が食べ物を得るのは当然だからです。"

マタイの福音書 10章10節


神の働き人が謝礼を受けるのは当然のことだと書いてあります。


教役者たちも、お金のことで神の働きをしてはいけないのです。癒しの祈りをしてあげるから、お金を持ってきなさい。預言してあげるから、お金を持ってきなさい。こういうのは絶対にいけないことです。


マタイ10章8節を見ると、こう書いてあります。


"病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。"

マタイの福音書 10章8節


神様からただで受けたのだから、ただで与える。これが賜物を用いる原則です。


もちろん、病気が癒された人が、喜んで感謝献金を持ってくることがあります。その場合も、そのお金は献金として捧げるんですね。もし人が「病を癒してあげる」「預言してあげる」と言って金銭を要求するようなことがあれば、それは偽預言者あるいは偽預言者になりつつある人かもしれません。


第2列王記5章には、教訓になるような話があります。


将軍ナアマンはツァラァトにかかりましたが、エリシャのもとにいって綺麗に癒されました。彼はどんなに喜んだでしょう。高価な贈り物をエリシャにあげようとしますが、エリシャは断固として受けとりません。エリシャはこの出来事を通して神様だけに栄光をささげたかったんですね。ところが、横で見ていたゲハジという弟子がいました。ナアマンの贈り物を見て「もったいない。受け取ればいいのに」と思ったので、自分の国に帰ろうとするナアマンの後ろについていきました。そして、嘘をついてその高価な贈り物を受け取ったのです。その後ゲハジはどうなったでしょうか。ナアマンのツァラァトがゲハジにうつったのです。


神様からただで受けた賜物を、自分の欲のために使ってはいけない。これを必ず心に留めましょう 。

 

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第3のポイントは「品性やきよさ、御霊の実がきちんと結ばれているか」です。これも見ていかなければなりません。


"しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。"

ガラテヤ人への手紙 5章22~23節


ある人の賜物は優れているけれど、御霊の実が一向に現れていない。その場合は本当に気をつけなければなりません。


賜物は神様からのプレゼントです。プレゼントですから、受け取ったときから自分の物になります。自分でいくらでも使うことができます。


異言の賜物を受けたら、その時から異言で祈れます。病の癒しの賜物を受けたら、その時からは人々に手を置いて祈れば病が癒されます。預言の賜物を受けたら、その時から人々を見ると預言できるようになります。


御霊の実はこれとは異なることを知らなければなりません。毎日聖霊様と親しい交わりをすることによって、少しずつ少しずつ人の中で成長していくもの、これが御霊の実です。御霊の実はまさにイエス様の品性とも言えます。


たとえば、ある人が救いを受けました。賜物は一つも受けていません。しかしあまりにも感謝感激が増えて、毎日主の御前で祈っていました。するとこの人には、御霊の実がだんだん結ばれていき、だんだんイエス様に似ていきます。


また、ある人が素晴らしい賜物を受けました。でも、神様の御心を行いたい、神様の御心は何ですかとは祈らず、ただただ自分の欲のために求めるなら、聖霊様との正しい交わりは起きません。どんなに祈ったとしても、御霊の実は結べないのです。


そうだとしても、賜物はある程度使うことができます。


人が祈るは何のためですか。毎日聖霊様と交わり、従っていくためではなくて、自分の中にある欲望を満たし、欲に従って生きていく。そういう人はいくら祈っても御霊の実を結べません。


たとえ賜物は素晴らしくても、その人に実が結ばれていなければ、神の人だと断定してはいけません。人を見るときには、その人の賜物ではなく、実を見てちゃんと識別することが重要です。


教役者であってもなくても、常に謙遜に主を見上げて、主だけに従っていかなければなり ません。

 

最後に、神様はなぜ偽預言者をそのままにしておくのかという問題について話します。


ときには私たちの周りに偽預言者がいる可能性があります。でも彼らには、以前と変わらず賜物はちゃんとあります。そういう人を見て、こう思うかもしれません。


「人々があの人に惑わされないように、あの人の賜物を神様が全部奪い去って行かれればいいのに。神様、なぜ変質しているのに、賜物をそのままほおっておくんですか」と。


最も重要な理由を一つ話します。彼らを通して神様がなさろうとしていることがあるんですね。それは、本物のクリスチャンと偽物のクリスチャンを分けるということです。


世の終わりが近くなればなるほど、偽預言者の活動範囲は大きく広がっていきます。神様がヒツジとヤギを分ける作業、麦と毒麦を分ける作業で誰を用いるか。まさに、この偽預言者を用いるのです。


私たち人間の心と霊は、似たもの同士惹きつけられ、ついていくようになっています。


"不法の者は、サタンの働きによって到来し、あらゆる力、偽りのしるしと不思議、また、あらゆる悪の欺きをもって、滅びる者たちに臨みます。彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。"

テサロニケ人への手紙 第二 2章9~10節


なぜ悪い人をそのまま放っておくのか。


結局、真理の愛を受け入れなかった人たちは、自らそこに引き寄せられていきます。神は彼らが偽りを信じるよう、惑わす力を送り込まれます。それは真理を信じないで悪を喜んでいた全てのものがさばかれるためです。


ですからもし、私の内側にも自分の欲望、お金の欲望、自分の思うままにやりたいという心があるなら、偽預言者に自分も引き寄せられていきます。


同じ霊と霊が惹きあっていくこと。これに本当に気をつけなければなりません。偽預言者の問題は、神様から大きな賜物を受けた人に限らないのです。


教役者だとしても、毎日聖霊様に従わないで自分の肉のおもむくままに生きるなら、だんだん偽預言者へ変質していきます。信徒も同じですね。本物の真理を探して本物の聖霊様に従っていきたい、真理についていきたいと思わないなら、ダメなのです。自分の内側にある欲に従っていくなら、たやすく偽預言者に騙され、惑わされ、ついていってしまいます。


ですから私たちは常に、正しい御言葉の上に立とうと努力しなければいけません。自分の欲望ではなく、聖霊様が与えてくださる思いに従順し生きていこうと努力する。そうするなら誰でも惑わされずに、最後まで正しい道を歩むことができます。


そのような祝福があるよう、主の御名によって祝福しお祈りします。