きまたまジャーナル

オーロラの海に浮かぶ氷山と、アーモンドの花冠

神の子のかたちは、夜作られる



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クリスチャンも、孤独や絶望、敵意や抑圧のまっただなかに置かれることがある。むしろ、神に愛される者だからこそ、クリスチャンはこうした暗闇の経験を「必ず」通過させられるという。

 

ペテロやパウロの敬虔な人生に、押し潰されそうな闇夜が幾度となく訪れたように、私の人生にも多くの漆黒の夜があった。


彼らが暗闇のほとりで神に出会い、御声を聞いたように、私も人生の夜更けにともしびを灯して神の手紙の束を広げ、その語りかけに耳を澄ましてきた。

 

いや、まさに今もそんなときと言える。


一筋の光もない夜は恐ろしい。けれども、その暗黒の中に神はおられる。神にとっては、闇も真昼のごとく明るい。クリスチャンは、暗闇の静けさの中でこそ、生きておられる真実な神を探し求め、その手にすがることができる。ここに苦しみの意義がある。

 

UDトークを入れた

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聞こえる人と聞こえない人とが一緒に話すとき、どうしてもタイムラグが生まれる。それで、ドラマ「Silent」で話題のUDトークを入れてみた。

 

会話の記録をメール送信し共有できるし、zoomのように離れた場所にいる人と通話もできる。無料なわりに使えるアプリだと感心する。いつも議事録でてんやわんやしている同僚にもすすめてあげたいくらいだ。

 

音楽の流れる満席のカフェではさすがに誤変換が多かったが、かえって笑いを誘われた。ちなみに、NHKのアナウンサーの声だけはきちんと文字化してくれるらしい。

 

https://udtalk.jp/

聴色感覚

色が響く、色が聴こえる。ごくたまにそんな体験をすることがある。

 

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エビデンスはないので真偽のほどはわからないが、実際「大脳の中で視覚と聴覚はとなりあっているから、互いに影響しあう」らしい。まあ、音に色味を感じるからこそ「音色」なわけで、きっと人間の脳は本当にそうなっているのだろう。

 

けれども、私がそういった感覚を楽しめるのは、自分の心に充分な余白があるときだけ。雑多な色と音が洪水のように押し寄せる人混みでは、一方的に攻め込まれているような気分になってしまい、あまり落ち着くことができない。コンサート会場や映画館も同じ。ある時点で何かが臨界点を迎えると、とたんに疲れてしまう。 

 

繊細さん(HSP)ってやつなのだ。

 

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昨日の美術展の阿部千鶴さんの絵からは、ふと、音が聴こえるような気がした。キャンバスには、色とりどりの花々と楽器のモチーフが並列に散りばめられていたから、余計にそんな気持ちになったのかもしれない。

 

メロディはないけれど、重なり合った色が滲みながら染みていき、心に複雑な響きが広がる感じ。明るく澄んだ和音だけでなく、パッシングコードのように翳りを帯びたスパイシーな色も通り過ぎていく。美術館を出た後も、しばらくのあいだ心地よい残響があった。

 

いつか、阿部千鶴さんのアーティストトークに参加する機会があったら、伺ってみたい。もしかすると、あなたも「聴こえるタイプ」ですか? と。なんだか危ない感じの質問だけど。

 

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日本画家 阿部千鶴さんの展覧会

 

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延々と電車を乗り継いで、展覧会へ。インスタでたまたま見つけて興味をひかれた日本画の作家さん。

 

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少女、花、タティングレース、格子窓、木馬、公園の遊具、自転車、楽器…。ひとつの絵の中に、いくつものモチーフが多重露光のように重ねて描かれている。インドア派女子の好きなものがたくさん詰まっている感じ。

 

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吸い込まれそうに柔らかい、マットな岩絵具のタッチがすてき。近づいたり離れたり、刷毛目のあとや質感を確かめたりしながら鑑賞させていただく。

 

すべての作品を撮影してきたけれど、実物には敵わない。でも、手元においてじっくり眺めたら、もっとたくさんの発見がありそうだ。

 

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http://sato-museum.la.coocan.jp/exhibition/exhibition-2022.html?id=ex230106

 

個人的メッセージメモ 11

カインの礼拝とアベルの礼拝 2021.2.7

ダニエル・リー師

https://youtu.be/lsqK7lOxS1I

 

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"信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。"

ヘブル人への手紙 11章4節

 

旧約の「ささげもの」は、今日の私たちの「礼拝」と同じ意味。アベルは義人と認められたとある。私たちはクリスチャンになると週1の礼拝を捧げるようになるが、適当に捧げる人、捧げない人、いろいろいる。しかし、捧げる礼拝の勝敗が人生の勝敗であることを覚えたい。

 

アダムとエバから生まれた最初の人は、カインとアベル。はじめて彼らがしたことは、礼拝だった。神様が私たちを作ったのは、私たちが神に礼拝を捧げるためだと悟ろう。礼拝をおろそかにする人もいるが、これは私たちが作られた目的なので本当に大切なことである。礼拝の良しあしにより、カインとアベルの人生の明暗は分かれたのである。

 

"人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。"

創世記 4章1~5節

 

カインとその捧げものは、神に受け入れられなかった。実は私たちの礼拝でもこれが起きている。毎週集まって祈りを捧げ献金をしている。だから、神様はすべての人のすべての礼拝を喜んで受け取っておられると勘違いしてはいけない。

 

このように、神様は、ある人の礼拝には目を留めず受け取らない。もし、さばきの日にイエス様の前に立ったとき、捧げた礼拝がひとつも受け入れられていなかったら、いくら悔やんでも悔やみきれない。後の祭りである。気をつけないといけない。


捧げる礼拝を受け取る方は神であると、認識する必要がある。


なぜ、アベルは受け取られ、カインは受け取られなかったか。伝統的解釈では、アベルのいけにえは犠牲の血を流したから受け取られたという。この解釈は、教理的に一理あるし根拠もある。たしかに、罪人はそのままでは神の前に出ていくことができない。血を流す必要がある。


しかし、この時点では、罪のため血を流す必要があることが、まだ示唆されていない。罪のための犠牲のことは、アダムの2500年後、主がモーセを通して教えられたことである。この時点では具体的な啓示はなかったので、この解釈は推測に過ぎない。また、カインは農業をする人なので、羊でないと受け取らないというのは不公平。また、穀物のいけにえというのも存在する。だから、少し無理がある説明と思う。


では、カインとアベルに対する、この差は何か。

 

アベルはすぐれたいけにえを捧げた。羊の初子の中から最上のものをえりすぐって持ってきた。初子、初穂、群れからの最高のもの、一番良いもの。アベルは持っているものの中で一番大切なものを捧げた。カインは地の作物からふつうに持ってきた。

 

ではアベルはなぜ最高のものを捧げ、カインは適当なものを捧げたのか。

 

ヘブ11:4に「信仰によって」と書いてある。信仰によって。神を神として重んじた結果、アベルはこのように捧げた。神様を愛し神様を恐れた。カインはあいまいな態度で神に向かい合っていた。従おうともしていなかった。


神様への捧げものには、人が神様をどうとらえているかがあらわれる。礼拝の態度。全知全能の神に礼拝を捧げている、その意識があれば、どのような態度で捧げるかが変わってくる。


礼拝で一番大切なのは、神様に対する態度だ。献金だけではない。時間も、賛美も、祈りも、奉仕も、私たちはすべてを捧げている。これらすべてが礼拝である。人にではなく神様に捧げる、その意識を持ってほしい。本当に大切なのは、今私は生きておられる真の神、創造主に礼拝を捧げているのかどうか。これを自分に問う必要がある。私たちはカインにもアベルにもなる。

 

自分を満たすためではなく、主に捧げる礼拝。そして喜んで捧げるべき。

 

"ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。"

コリント人への手紙 第二 9章7節

 

神様は物乞いではない。すべての王、すべての主。その方にふさわしい礼拝を捧げなければならない。私たちが喜んで捧げるとき、受け取ってくださる。いやいやではなく、決めたとおりに捧げよう。いやならむしろ捧げなくてもいい。


意識を変えないといけない。捧げるすべてが美しくなれば、神はよろこんで受け取ってくださる。カインの礼拝になってしまうなら、主は受けてくださらない。いくらたくさん捧げても。

 

"あなたがたは、盲目の獣をいけにえにささげるが、それは悪いことではないか。足のなえたものや病気のものをささげるのは、悪いことではないか。さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたをよみし、あなたを受け入れるだろうか。--万軍の主は仰せられる--

さあ、今、恵みを受けるために神に願ってみよ。これはあなたがたの手によることだ。神はあなたがたのうちだれかを、受け入れてくださるだろうか。--万軍の主は仰せられる--

あなたがたのうちにさえ、あなたがたがわたしの祭壇に、いたずらに火を点ずることがないように、戸を閉じる人は、だれかいないのか。わたしは、あなたがたを喜ばない。--万軍の主は仰せられる--わたしは、あなたがたの手からのささげ物を受け入れない。"

マラキ書 1章8~10節

 

持ってきたら、人さえ受け取らないようなものを、神に捧げてはならない。神は形式的な礼拝は受け取られない。

 

"しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」"

ヨハネ福音書 4章23~24節

 

主が求めておられるのは、霊とまことによって礼拝するものだから。

 

日頃の生き方がそのまま神様への礼拝となる。私たちが礼拝を捧げるとき、礼拝の時間にだけ目を留めておられるのではない。生活の時間にも、神は目を留めておられる。

 

"アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。"

創世記 4章4節

 

アベルとそのささげものに、神は目を留められた。ささげものだけではない。ささげものとアベル、両方に目を留められた。カインもそうである。ささげものにもカインにも、目を留めてくださらなかった。

 

受け取る・受け取らないは、いけにえの問題だけではない。礼拝の時間の問題、捧げる内容の問題だけではない。私たち自身が問われている。

 

人間も同じ。お互いに信頼しあう人からのプレゼントは、喜んで受け取れる。関係が悪ければ、プレゼントは受け取りたくないもの。だから、礼拝の時間だけを考えてはならない。アベル自身も神は喜んで受け取った。

 

"それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復がおまえたちの上に来るためです。"

マタイの福音書 23章35節

 

義人アベル、とイエス様が評価しておられる。アベルは殺されたから義人になったわけではない。死とは関係なく、アベルは日ごろから正しく生きていた。だから神はアベルも喜んでおられたし、アベルのいけにえも喜んでおられたということ。

 

"カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。"

ヨハネの手紙 第一 3章12節

 

カインを見習っては絶対ダメだと言っている。カインは悪いものに属している者。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったから、弟を殺したのだと書いてある。ここからカインの生き方を見ることができる。自分が悪かったら直せばいいのに、正しい弟のことを嫉妬した。私たちにもこのような性質がある。相手が正しく自分が悪いなら、自分のことを悔い改めて正しくなれば良い。嫉妬や妬みで殺してしまうところに人の罪がある。

 

"ああ。彼らはカインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのようにそむいて滅びました。"

ユダの手紙 1章11節

 

カインの道、カインの生き方。それは滅びにつながる。彼のようになってはならないと警告している。神はカインに警告を与える。

 

"そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。

あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」"

創世記 4章6~7節

 

あなたが正しかったなら、私も受け入れると言っている。そうでないなら、罪があなたを治め、もっと強い誘惑を受けるようになると。悔い改めることができる、恵みのときがある。この機会を逃すと人はかたくなになり、回復できない。カインは悔い改めなかった。

 

"しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。"

創世記 4章8節

 

悲劇が起きた。罪とは恐ろしいもの。アダムとエバは、ただ小さな不従順をしたように見える。しかし次の世代では人殺しが生まれた。罪の腐敗から生まれたもの。罪は拡大していく。

 

"主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」"

創世記 4章9節

 

カインは神に口答えしている。カインは神をも恐れることがなかった。神に対するカインの信仰がわかる。それで、受け入れられなかった。礼拝は信仰。生き方も信仰。神の警告に対して悔い改めないと、このようにかたくなになる。気をつけよう。

 

カインはのろわれたものとなった。

 

"そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。

今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。

それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」"

創世記 4章10~12節

 

私たちがどのような信仰を持っているかが、生き方と礼拝の決め手になる。カインとアベルのできごとから、自分を吟味する必要がある。警告に対して、カインは悔い改め、方向転換するべきだった。そうするなら受け入れられた。しかしカインはすべてを棚にあげ、神の差別にフォーカスを当て、弟まで殺してしまった。

 

教会の中で、カインとアベル、どちらが多いだろうか。実はカインのような人が多い。圧倒的に多い。


三者の立場から聞けば、カインのひどさはよくわかる。しかしいざ自分が何かの間違いを犯し注意を受けると、冷静ではいられないもの。悪かった原因を探って直すことはしない。ただ腹をたて、間違った方向に行ってしまう。理性ではわかるが感情がついていかない、だからカインの道を選ぶ、そのような人が多い。その道は滅びの道である。


聖書のみ言葉から見て、自分を打ちたたいて従順するなら、絶対にカインの道には行かない。

 

"悪者のいけにえは主に忌みきらわれる。正しい者の祈りは主に喜ばれる。"

箴言 15章8節

 

ささげものも大事だが、捧げる人がもっと大事。心にいつも悪いことが渦巻いているのに、教会では厳粛に奉仕し礼拝するなら、それはカインの礼拝になる。

 

イザヤの時代、罪が満ちていた。ソドムとゴモラだと書いてある。それでも民は、自分がただ祝福を受けたいがゆえにたくさん捧げて、祈りを聞いてくれと礼拝していた。神はこのように語った。

 

"もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙--それもわたしの忌みきらうもの。新月の祭りと安息日--会合の召集、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない。

あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた。

なたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。"

イザヤ書 1章13~15

 

いけにえはいらない。捧げに来るなということ。見ていられないから。不義の礼拝は重荷だと。


そのような礼拝に効果はない。まず、神の前で悔い改めないといけない。礼拝の時間だけではないから。私の毎日を主は見ておられるから。

 

"そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。"

ローマ人への手紙 12章1節

 

きよい生きた供え物。からだが供え物。これは、生活のすべてのことを指す。きよい生活をしなさい、それこそ霊的な礼拝で神を喜ばせる。生活は礼拝の結晶体である。私自身を神が受け取るかどうかという問題だ。


私たちが礼拝を捧げるとき、自分をきよめるポイントは「信仰によって」という部分にある。神をどのような方として信じているのかが、生活を決め、礼拝をも決める。信仰によって礼拝しているかどうか。

 

私たちは銀行を信頼しお金を預けている。信用できないなら預けられない。同じように、どれほどの信仰と信頼を持っているかが、私たちの人生を神にどれほど預けるかにあらわれてくる。

 

神への信頼があれば、最善を尽くし、最上のものを捧げるに違いない。私たちはイエス様によって作られただけでなく、地獄から天国へ生きるものとなった。そのことへの信仰があれば、感謝と愛しかない。最高のものを捧げることができる。それがなければ、カインのように適当になる。蒔いたものに対する確信や、救いに対する明確な信仰がなければ、礼拝もあいまいになってしまう。明確なら、心から神を恐れるし罪と戦おうとする。正しく生きて神に喜びを与えたいと願う。適当な人にはそのような恐れがない。さばきも恐れない。感情がいつも先走った生活をすることになる。

 

神への信仰が、礼拝の質を決める。だから正しい信仰を持とう。私たちの礼拝によって、永遠の勝敗が分かれることを悟ろう。

 

 

 

個人的メッセージメモ 10

エリヤのうつ病を癒す神様

ダニエル・リー師

22.10.15.

 

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"それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。"

マタイの福音書 17章1~3節

 

ここに旧約聖書の2人の人物が登場する。モーセは律法を、エリヤは預言者たちを代表している。エリヤはそれほどに神様から用いられた人物だった。


ところがエリヤは、死を願うほどのうつ病にかかる。なぜ、このように神様を愛し献身している人が、突然バーンアウトしたのだろう。

 

❶神様の指示を待てなかった


"彼はそれを知って立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、自分は荒野に、一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」"

列王記 第一 19章3~4節

 

エリヤはいつも、神様の指示どおりに動いていた。自分の考えによらず、つねに神様の指示を待ち、それを得てから動いていた。しかし状況が急変し命の危険に晒されたとき、自分の考えで動いたのである。

 

❷期待した結果を得られなかった


3年半の飢饉の間、エリヤ自身も苦労していた。カルメル山では、850人のバアル・アシェラ預言者たちにひとりで対峙したが、エリヤの祈りに神様が素晴らしい奇跡で答えてくださったので、期待感があった。エリヤの期待とは、このことを通してすべてのイスラエルの民が神様に立ち返ること、またこれまで神のしもべたちを殺して偶像崇拝してきた者たちがさばかれることであった。


しかし、エリヤの願いどおりにはならなかった。民がひとりも立ち返らなかっただけでなく、悪者はさばかれず、エリヤの命は危なくなった。エリヤは完全に失望してしまった。

 

❸いつも神様の働きをするのは自分ひとり、という思いを持っていた


犠牲を払うのは私だけ。十字架を背負うのも私だけ。エリヤには、互いに労わりあい励ましあうような同労者はおらず、孤独だった。


神様の働きを少しでもしたことがある人なら、エリヤの気持ちが理解できるだろう。しかし私たちのゴールは、誰かと労わりあい共感するところにはない。私たちは、心折れたその人たちをもう一度立ち上がらせなければならないし、自分もそこから立ち上がらなければならない。


神様は絶望に落ちたエリヤを回復させてくださる。今回はそこをみていく。

 

私たちの周囲にも、バーンアウトした献身者や、自分なりに信じてイエス様に従っていこうとしたがうまくいかず絶望してしまった人がいるだろう。私たちはその人たちを、必ず立ち上がらせなければならない。


しかし、識別すべき点がある。


①その献身者は、本当に主の働きをしながらつまずいたのか。その信徒は、イエス様を純粋な気持ちで信じてみようとしてつまずいたのか。

②それとも、彼らは、自分の罪や不従順によりつまずいてしまったのか。


①の場合には、必ず助けなければならない。②の場合は、悔い改めることができるよう導いていかなければならない。神様はすべての人に同じ対応をなさらない。


私たちは、「イエス様を信じる人たちを、神様が少しばかり寛大な心で見てくださる」と考えてはいないだろうか。事実はその反対である。イエス様を信じる人たちを、神様は高い基準を持って見ておられるし、彼らへのさばきも厳しい。人が神様を知っている、信じていると口ではいいながら悪いことをしていたなら、神様の栄光にならず、むしろ侮辱することになるからだ。

 

"私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。

外部の人たちは神がおさばきになります。「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。」"

コリント人への手紙 第一 5章11~13節

 

"もし、この手紙に書いた私たちのことばに従わない者がいれば、そのような人には注意を払い、交際しないようにしなさい。その人が恥じ入るようになるためです。"

テサロニケ人への手紙 第二 3章14節

 

教会で実際、この御言葉を行ってはいない。これをやってしまったら、全世界の教会がすごいことになる。愛がない、神を信じているのかと非難されるだろう。


しかし私たちの信仰は、天国に行くのか地獄に行くのかを分けるもの。適当に信じてはならない。命をかけて正しく信じたとき、天国に行く。教会は本来厳しいところである。


今晩のメッセージの対象者は①であることを前提に話すが、まずはその人たちを心身共に休ませて回復させることだ。

 

"自分は荒野に、一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」

彼がエニシダの木の下で横になって眠っていると、見よ、一人の御使いが彼に触れ、「起きて食べなさい」と言った。"

列王記 第一 19章4~5節

 

絶望したエリヤに神様がかけた言葉は、どのようなものだったか。


ここに、「みつかいが触った」と書いてある。近くに行かなければ触ることができない。①の人々の回復のためには、まず私たちが彼らの横に行き、私はあなたと一緒にいますよとメッセージを送るのである。手で触ると親密さ、親しみを感じることができる。

 

"すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。

エスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。"

マタイの福音書 8章2~3節

 

ツァラァトは恐ろしい伝染病だ。誰も触れたいと思わないし、家族でさえ逃げたり隔離したりする。ところが、ことばひとつで癒せるイエス様は、わざわざ触れて癒された。


ツァラァトの人は、体も心も傷を受けていただろう。このような人には、距離を近くし触れることが大切だ。そのとき心の扉が開かれる。いくら遠くから声をかけても、「あなたは私の立場になったことがないから、私の気持ちなんてわからない」と言うだろう。


多くを語る必要はない。ただ横にいてあげること、その人が心を開いて多くを語るようになるまで待ってあげることが大事だ。

 

"彼がエニシダの木の下で横になって眠っていると、見よ、一人の御使いが彼に触れ、「起きて食べなさい」と言った。

彼が見ると、見よ、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入った壺があった。彼はそれを食べて飲み、再び横になった。

主の使いがもう一度戻って来て彼に触れ、「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と言った。

彼は起きて食べ、そして飲んだ。そしてこの食べ物に力を得て、四十日四十夜歩いて、神の山ホレブに着いた。"

列王記 第一 19章5~8節

 

不便な環境にいる人、こころや体の傷を負う人には、必要を満たしてあげることが先決だ。疲れ果てたエリヤのような人に、神様の御心の話を始めないでほしい。「霊的にはね」とか、「神様の使命というものはね」とか。そのような話には心開かないからである。その人には、自分の壊れた環境や壊れた心しか見えていない。


もし金銭的に困っているなら、まず助けなければならない。言葉ではなく、具体的に満たしてあげながら待つのである。


十分に食べて飲んで回復したなら、人は聞けるようになる。そのあとは神様が御心を悟らせてくださる。そのようにして、神様に対する信頼を回復しなければならない。


①の献身者の場合、自分の払った犠牲や労苦があまりにも大きくてつまずくのではない。その点には、はじめから覚悟がある。そうではなく、犠牲や労苦に対する神様の答えがあまりにも小さいとき、人はつまずく。


エリヤの場合は、3年半本当に孤軍奮闘していた。それなのになぜ、神様はアハブ一族を完全に滅ぼさなかったのか。なぜイスラエルの民が立ち返るようにされなかったのか。なぜアハブはピンピンして、自分は死にそうな状況なのか。


私たちも、信じて努力しているのに、やることなすことうまくいかず、経済的にも苦しい状況になれば、不平不満を言うようになる。教会に年に数回しか来ないような信者と自分を比較して、耐えられないと思い、神様の公義とさばきはどこにあるのかと訴え始める。


結局、自分の思っていた結果がやってこないとき、人は神様につまずく。

 

"「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──主のことば──

天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。"

イザヤ書 55章8~9節

 

未来についてわかる者は誰もいない。神様だけが、私たちの過去現在未来すべてを知っておられ、私たちにとって最善の道と目標を設け導いておられる。だから、ときには想定外のことが起きる。「神様に対する信仰」が発揮されるのはこのときだ。今どんなことが起きていても、神様が私を最善の道に導いておられることを信じなければならない。


エリヤはこの点で失敗した。神様は彼の思いを変えていく。

 

"彼はそこにある洞穴に入り、そこで一夜を過ごした。すると、主のことばが彼にあった。主は「エリヤよ、ここで何をしているのか」と言われた。

エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」

主は言われた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」するとそのとき、主が通り過ぎた。主の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。

地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。"

列王記 第一 19章9~12節

 

今までエリヤが体験してきた神様は、大風、地震、火の中で働かれる神様だった。しかし神様は静けさの中でも働かれること、神様にはひとつの姿ではなく、ほかの姿もあることを、ここでエリヤに悟らせているのである。


これまでは、エリヤの考えるとおりの結果になっていた。飢饉の中でも継続的な供給があり、天から火も注ぎ、雨も降る。エリヤは奇跡の人だった。しかし神様は、彼が思ってもいなかったことをなさる神であることを、エリヤに悟らせたかった。

 

"主は彼に言われた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ。

また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。

ハザエルの剣を逃れる者をエフーが殺し、エフーの剣を逃れる者をエリシャが殺す。"

列王記 第一 19章15~17節

 

神様は、アハブをはじめ偶像崇拝してきたすべての人を殺し、さばきを完全に達成するためこのようにされた。


エリヤは「今すぐ」神様がさばきをなさらないことに不満を持ったが、神様は「必ず」さばかれる方である。しかし同時に、どのような悪人でも死ぬことなく悔い改めて生きることを願う方でもあるので、さばきを遅らせるのである。


人が死んだあとに受けるさばきは、取り返しのつかない永遠のさばき。私たちは感情が作動して、悪人を今すぐさばきたいと思いがちだが、神様はどんな悪人にももう一度チャンスを与えたいと願っておられる。

ここに、神様と私たちの大きな違いがある。

 

"主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。"

ペテロの手紙 第二 3章9節

 

地上では、悪人が完全なさばきに会わず、繁栄して一生を終えることもあるが、結局、死後に永遠のさばきを受けねばならない。悪人をうらやむのではなく、憐れむ心を持とう。


この反対の現象が私たちに起こる。私たちが神様のために労苦し犠牲を払っても、地上では祝福を受けられないことがある。正しく生きていても、祝福ではなく苦しみが続くように思える場合がある。それでも私たちは、天国でイエス様と永遠に生きる。しかも天国では永遠の喜びとしあわせの中で生きる。そのことを信じなければならない。


神様のなさることは、この地上で終わらず永遠に続く。私たちの最終的なさばきは、御座の前にある。もしそうでないなら、殉教者の人生は無残である。しかし聖書では、彼らは第一の復活に預かることができ、キリストと共に千年の間王となると約束された、もっとも幸いな人だ。

 

"この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。"

ヨハネの黙示録 20章6節

 

アサフという詩篇の記者がいる。彼は、義人たちがいつも苦しみを受け、悪人たちが栄えている理由を理解できなかった。そのことゆえにつまずきそうだったと書いている。

 

"けれどもこの私は足がつまずきそうで私の歩みは滑りかけた。それは私が悪しき者が栄えるのを見て誇り高ぶる者をねたんだからだ。実に彼らの死には苦痛がなく彼らのからだは肥えている。人が苦労するときに彼らはそうではなくほかの人のように打たれることもない。"

詩篇 73篇2~5節

 

"見よこれが悪しき者。彼らはいつまでも安らかで富を増している。ただ空しく私は自分の心を清め手を洗って自分を汚れなしとした。

私は休みなく打たれ朝ごとに懲らしめを受けた。"

詩篇 73篇12~14節

 

一生懸命生きているのに、いいことが起きない。正しく生きているのに、苦しみだけがやって来る。なぜこうなのかとアサフは悩む。しかしある日聖所にいるとき、神様のさばきが永遠であると悟ったのである。

 

"私はこのことを理解しようとしたがそれは私の目には苦役であった。ついに私は神の聖所に入って彼らの最期を悟った。まことにあなたは彼らを滑りやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とされます。ああ彼らは瞬く間に滅ぼされ突然の恐怖で滅ぼし尽くされます。"

詩篇 73篇16~19節

 

もし私たちが罪を犯し間違ったことをしているのに、苦しみもなくすべてうまくいっているなら、それほど恐ろしい道はない。その人は悔い改めることができないから。罪を犯しても罰を受けないので、大丈夫だと思って生きているが、ある日突然滅びが訪れ、即座に地獄へ突き落とされてしまう。


少しの過ちを犯したなら神様のムチが飛んでくる、これはありがたいことだ。私たちは安全なのである。


神様はさばかれない方ではなく、必ずさばかれる方。しかも私たちが行ったとおりにさばかれる。落胆せず最後まで善を行おう。

 

"失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。"

ガラテヤ人への手紙 6章9~10節

 

だからこそ、信じる人同士がもっと理解しあい、支え合うことも大切である。


神様はエリヤに再び使命を与える。

エリヤは、自分が今までしてきたことはすべてムダだったと考えて絶望し、死を願っていた。神様は、そんなエリヤの体と心をまず休ませて回復させ、神様のさばきと報いについて悟らせた。神様に信頼することができるよう、エリヤを作り変えていったのである。


神様は、エリヤが働きに失敗したからといって、それを取り上げたりせず、むしろ再び働きにつけるよう回復させた。世の中のこともそうだが、私たちが神様の働きで失敗・挫折するときは、心に大きな傷やトラウマが残る。思い出すたびに傷が痛み、悔しさが蘇る。後悔もあるし、否定的な考えも湧いてくる。もう逃げてしまいたいとも思う。


失敗から回復するには、それをなかったことにするのではなく、最チャレンジして克服しなければならない。だから神様は、静まり返ったところでエリヤにあらわれ、彼に預言者としての働き、人に油を注ぐ使命を与えたのである。


エリヤが直接的にしなかったことも、エリヤが油を注いだ人々をとおしてなされていったことを、私たちは聖書を通して知ることができる。これは、エリヤの不平不満の祈りに神様が答えてくださったということでもある。「私だけが残った」と嘆くエリヤへの答え、エリヤを通してすべてを成し遂げるという神様の御心。エリヤだけでなく、エリヤに油注がれた人々をとおしても神様が働くことを、神様はエリヤに見せたのである。あなただけが残されたのではない、彼らもまた働くのであり、そのほかにも七千人がいるのだよと。

エリヤのつぶやきは完全に収束した。


①の人は、まず休んでほしい。心身の回復を待つことだ。その後、余裕が生まれる。

神様がどういうお方なのか。御心はどこにあるのか。永遠のさばきと、永遠のいのち、永遠の報いについて、そのときもう一度深く黙想するときを持ってほしい。そして、神様に対する信頼が回復したとき、もう一度自分の使命にチャレンジしてほしい。


このようにして、いつも主の中で勝利するみなさんであるように、祝福をお祈りします。