きまたまジャーナル

オーロラの海に浮かぶ氷山と、アーモンドの花冠

個人的メッセージメモ 11

カインの礼拝とアベルの礼拝 2021.2.7

ダニエル・リー師

https://youtu.be/lsqK7lOxS1I

 

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"信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。"

ヘブル人への手紙 11章4節

 

旧約の「ささげもの」は、今日の私たちの「礼拝」と同じ意味。アベルは義人と認められたとある。私たちはクリスチャンになると週1の礼拝を捧げるようになるが、適当に捧げる人、捧げない人、いろいろいる。しかし、捧げる礼拝の勝敗が人生の勝敗であることを覚えたい。

 

アダムとエバから生まれた最初の人は、カインとアベル。はじめて彼らがしたことは、礼拝だった。神様が私たちを作ったのは、私たちが神に礼拝を捧げるためだと悟ろう。礼拝をおろそかにする人もいるが、これは私たちが作られた目的なので本当に大切なことである。礼拝の良しあしにより、カインとアベルの人生の明暗は分かれたのである。

 

"人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。"

創世記 4章1~5節

 

カインとその捧げものは、神に受け入れられなかった。実は私たちの礼拝でもこれが起きている。毎週集まって祈りを捧げ献金をしている。だから、神様はすべての人のすべての礼拝を喜んで受け取っておられると勘違いしてはいけない。

 

このように、神様は、ある人の礼拝には目を留めず受け取らない。もし、さばきの日にイエス様の前に立ったとき、捧げた礼拝がひとつも受け入れられていなかったら、いくら悔やんでも悔やみきれない。後の祭りである。気をつけないといけない。


捧げる礼拝を受け取る方は神であると、認識する必要がある。


なぜ、アベルは受け取られ、カインは受け取られなかったか。伝統的解釈では、アベルのいけにえは犠牲の血を流したから受け取られたという。この解釈は、教理的に一理あるし根拠もある。たしかに、罪人はそのままでは神の前に出ていくことができない。血を流す必要がある。


しかし、この時点では、罪のため血を流す必要があることが、まだ示唆されていない。罪のための犠牲のことは、アダムの2500年後、主がモーセを通して教えられたことである。この時点では具体的な啓示はなかったので、この解釈は推測に過ぎない。また、カインは農業をする人なので、羊でないと受け取らないというのは不公平。また、穀物のいけにえというのも存在する。だから、少し無理がある説明と思う。


では、カインとアベルに対する、この差は何か。

 

アベルはすぐれたいけにえを捧げた。羊の初子の中から最上のものをえりすぐって持ってきた。初子、初穂、群れからの最高のもの、一番良いもの。アベルは持っているものの中で一番大切なものを捧げた。カインは地の作物からふつうに持ってきた。

 

ではアベルはなぜ最高のものを捧げ、カインは適当なものを捧げたのか。

 

ヘブ11:4に「信仰によって」と書いてある。信仰によって。神を神として重んじた結果、アベルはこのように捧げた。神様を愛し神様を恐れた。カインはあいまいな態度で神に向かい合っていた。従おうともしていなかった。


神様への捧げものには、人が神様をどうとらえているかがあらわれる。礼拝の態度。全知全能の神に礼拝を捧げている、その意識があれば、どのような態度で捧げるかが変わってくる。


礼拝で一番大切なのは、神様に対する態度だ。献金だけではない。時間も、賛美も、祈りも、奉仕も、私たちはすべてを捧げている。これらすべてが礼拝である。人にではなく神様に捧げる、その意識を持ってほしい。本当に大切なのは、今私は生きておられる真の神、創造主に礼拝を捧げているのかどうか。これを自分に問う必要がある。私たちはカインにもアベルにもなる。

 

自分を満たすためではなく、主に捧げる礼拝。そして喜んで捧げるべき。

 

"ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。"

コリント人への手紙 第二 9章7節

 

神様は物乞いではない。すべての王、すべての主。その方にふさわしい礼拝を捧げなければならない。私たちが喜んで捧げるとき、受け取ってくださる。いやいやではなく、決めたとおりに捧げよう。いやならむしろ捧げなくてもいい。


意識を変えないといけない。捧げるすべてが美しくなれば、神はよろこんで受け取ってくださる。カインの礼拝になってしまうなら、主は受けてくださらない。いくらたくさん捧げても。

 

"あなたがたは、盲目の獣をいけにえにささげるが、それは悪いことではないか。足のなえたものや病気のものをささげるのは、悪いことではないか。さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたをよみし、あなたを受け入れるだろうか。--万軍の主は仰せられる--

さあ、今、恵みを受けるために神に願ってみよ。これはあなたがたの手によることだ。神はあなたがたのうちだれかを、受け入れてくださるだろうか。--万軍の主は仰せられる--

あなたがたのうちにさえ、あなたがたがわたしの祭壇に、いたずらに火を点ずることがないように、戸を閉じる人は、だれかいないのか。わたしは、あなたがたを喜ばない。--万軍の主は仰せられる--わたしは、あなたがたの手からのささげ物を受け入れない。"

マラキ書 1章8~10節

 

持ってきたら、人さえ受け取らないようなものを、神に捧げてはならない。神は形式的な礼拝は受け取られない。

 

"しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」"

ヨハネ福音書 4章23~24節

 

主が求めておられるのは、霊とまことによって礼拝するものだから。

 

日頃の生き方がそのまま神様への礼拝となる。私たちが礼拝を捧げるとき、礼拝の時間にだけ目を留めておられるのではない。生活の時間にも、神は目を留めておられる。

 

"アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。"

創世記 4章4節

 

アベルとそのささげものに、神は目を留められた。ささげものだけではない。ささげものとアベル、両方に目を留められた。カインもそうである。ささげものにもカインにも、目を留めてくださらなかった。

 

受け取る・受け取らないは、いけにえの問題だけではない。礼拝の時間の問題、捧げる内容の問題だけではない。私たち自身が問われている。

 

人間も同じ。お互いに信頼しあう人からのプレゼントは、喜んで受け取れる。関係が悪ければ、プレゼントは受け取りたくないもの。だから、礼拝の時間だけを考えてはならない。アベル自身も神は喜んで受け取った。

 

"それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復がおまえたちの上に来るためです。"

マタイの福音書 23章35節

 

義人アベル、とイエス様が評価しておられる。アベルは殺されたから義人になったわけではない。死とは関係なく、アベルは日ごろから正しく生きていた。だから神はアベルも喜んでおられたし、アベルのいけにえも喜んでおられたということ。

 

"カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。"

ヨハネの手紙 第一 3章12節

 

カインを見習っては絶対ダメだと言っている。カインは悪いものに属している者。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったから、弟を殺したのだと書いてある。ここからカインの生き方を見ることができる。自分が悪かったら直せばいいのに、正しい弟のことを嫉妬した。私たちにもこのような性質がある。相手が正しく自分が悪いなら、自分のことを悔い改めて正しくなれば良い。嫉妬や妬みで殺してしまうところに人の罪がある。

 

"ああ。彼らはカインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのようにそむいて滅びました。"

ユダの手紙 1章11節

 

カインの道、カインの生き方。それは滅びにつながる。彼のようになってはならないと警告している。神はカインに警告を与える。

 

"そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。

あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」"

創世記 4章6~7節

 

あなたが正しかったなら、私も受け入れると言っている。そうでないなら、罪があなたを治め、もっと強い誘惑を受けるようになると。悔い改めることができる、恵みのときがある。この機会を逃すと人はかたくなになり、回復できない。カインは悔い改めなかった。

 

"しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。"

創世記 4章8節

 

悲劇が起きた。罪とは恐ろしいもの。アダムとエバは、ただ小さな不従順をしたように見える。しかし次の世代では人殺しが生まれた。罪の腐敗から生まれたもの。罪は拡大していく。

 

"主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」"

創世記 4章9節

 

カインは神に口答えしている。カインは神をも恐れることがなかった。神に対するカインの信仰がわかる。それで、受け入れられなかった。礼拝は信仰。生き方も信仰。神の警告に対して悔い改めないと、このようにかたくなになる。気をつけよう。

 

カインはのろわれたものとなった。

 

"そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。

今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。

それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」"

創世記 4章10~12節

 

私たちがどのような信仰を持っているかが、生き方と礼拝の決め手になる。カインとアベルのできごとから、自分を吟味する必要がある。警告に対して、カインは悔い改め、方向転換するべきだった。そうするなら受け入れられた。しかしカインはすべてを棚にあげ、神の差別にフォーカスを当て、弟まで殺してしまった。

 

教会の中で、カインとアベル、どちらが多いだろうか。実はカインのような人が多い。圧倒的に多い。


三者の立場から聞けば、カインのひどさはよくわかる。しかしいざ自分が何かの間違いを犯し注意を受けると、冷静ではいられないもの。悪かった原因を探って直すことはしない。ただ腹をたて、間違った方向に行ってしまう。理性ではわかるが感情がついていかない、だからカインの道を選ぶ、そのような人が多い。その道は滅びの道である。


聖書のみ言葉から見て、自分を打ちたたいて従順するなら、絶対にカインの道には行かない。

 

"悪者のいけにえは主に忌みきらわれる。正しい者の祈りは主に喜ばれる。"

箴言 15章8節

 

ささげものも大事だが、捧げる人がもっと大事。心にいつも悪いことが渦巻いているのに、教会では厳粛に奉仕し礼拝するなら、それはカインの礼拝になる。

 

イザヤの時代、罪が満ちていた。ソドムとゴモラだと書いてある。それでも民は、自分がただ祝福を受けたいがゆえにたくさん捧げて、祈りを聞いてくれと礼拝していた。神はこのように語った。

 

"もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙--それもわたしの忌みきらうもの。新月の祭りと安息日--会合の召集、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない。

あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた。

なたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。"

イザヤ書 1章13~15

 

いけにえはいらない。捧げに来るなということ。見ていられないから。不義の礼拝は重荷だと。


そのような礼拝に効果はない。まず、神の前で悔い改めないといけない。礼拝の時間だけではないから。私の毎日を主は見ておられるから。

 

"そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。"

ローマ人への手紙 12章1節

 

きよい生きた供え物。からだが供え物。これは、生活のすべてのことを指す。きよい生活をしなさい、それこそ霊的な礼拝で神を喜ばせる。生活は礼拝の結晶体である。私自身を神が受け取るかどうかという問題だ。


私たちが礼拝を捧げるとき、自分をきよめるポイントは「信仰によって」という部分にある。神をどのような方として信じているのかが、生活を決め、礼拝をも決める。信仰によって礼拝しているかどうか。

 

私たちは銀行を信頼しお金を預けている。信用できないなら預けられない。同じように、どれほどの信仰と信頼を持っているかが、私たちの人生を神にどれほど預けるかにあらわれてくる。

 

神への信頼があれば、最善を尽くし、最上のものを捧げるに違いない。私たちはイエス様によって作られただけでなく、地獄から天国へ生きるものとなった。そのことへの信仰があれば、感謝と愛しかない。最高のものを捧げることができる。それがなければ、カインのように適当になる。蒔いたものに対する確信や、救いに対する明確な信仰がなければ、礼拝もあいまいになってしまう。明確なら、心から神を恐れるし罪と戦おうとする。正しく生きて神に喜びを与えたいと願う。適当な人にはそのような恐れがない。さばきも恐れない。感情がいつも先走った生活をすることになる。

 

神への信仰が、礼拝の質を決める。だから正しい信仰を持とう。私たちの礼拝によって、永遠の勝敗が分かれることを悟ろう。