きまたまジャーナル

オーロラの海に浮かぶ氷山と、アーモンドの花冠

個人的メッセージメモ 12

なぜ、終わりの時代にエリヤを送るのか?

2019.7.28     ダニエル・リー師

https://youtu.be/nVa7hPnAS-Y

"見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」"
マラキ書 4章5~6節


父の心を子に、子の心を父に。神は終わりの時代に、たくさんの預言者の中から、なぜ「エリヤを送る」と約束したのか。エリヤの意味とはなんだろうか?


終わりの時代は難しい時代。それで私たちにも、エリヤと同じ信仰を持つこと、エリヤの言うように、悔い改めて立ち返ることが必要となる。またこれは、もしそうしなかったら呪いで滅ぼされるという警告でもある。


終わりの時代は暗黒であり、迫害の時代。悪いものもたくさんある。


エリヤは、だれよりも神の前に悪を行ったアハブ王の治世に生きた。アハブは実際的に偶像礼拝をし、その結婚自体も間違っていた。アハブ王の妻イゼベルは、シドンの王の娘で、その名の意味も「バアルの証」。彼女は熱烈なバアル崇拝者で、主の預言者を次々に抹殺した。


終わりの時代も、イエス様への信仰が妨げられ、聖徒が迫害によって殺され、信仰を持って生きることが難しくなる。

 

"そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。"
マタイの福音書 24章9~10節


では、なぜイエス様を禁ずるようになるのか。


今年2月にイスラエル人から聞いたことだが、今、いろんな宗教がイスラエルに入ってきている。仏教でも何でも伝道しても別になんともないのに、イエス様を伝えるときだけ人々は拒み、抵抗するそうだ。


エス様だけが本物の永遠の道なので、悪魔は阻止しようとする。ほかの宗教に価値はないので、悪魔は放置する。


世界宗教統一の動きがある。建前は「紛争の原因は宗教。お互いに認め合って、その紛争を止めましょう」というもの。しかし、人間の救いはイエス様を信じるところにしかない。イエス様によって罪を許されることにしかない。だから悪魔はそこをねらっている。


同性愛は罪です、という話などはできなくなる時代に入っていく。

 

"そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、「だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう」と言った。
この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。"
ヨハネの黙示録 13章4~5節


この42カ月(3年6カ月)とは、最後の艱難である。獣に権威が与えられ、聖徒に打ち勝つ。残念ながら、これは、私たちが祈っても勝てない苦難のときである。

 

"それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。"
ヨハネの黙示録 13章15節


このようなエリヤの時代は必ず来る。主ではないものを拝まなければならない時代。偽預言者がたくさん出てくる時代。


アハブ王の頃にも主の預言者はおり、アハブ自身も主を信じていた。彼は、ラモテ・ギルアデで戦争をして勝ち取りたい思いがあったので、主に聞いてから戦いにのぼろうとする。そのとき、400人の者が「主の言葉」を語った。実はこれは、厳密に言えば偽預言をしたわけではない。本当に神の霊から啓示を受けて、預言者たちがこのようなことを言った。しかし、ミカヤがあとからきて、その真相を明らかにする。

 

"すると、ミカヤは言った。「それゆえ主のことばを聞きなさい。私は主が御座にすわり、天の万軍がその右左に立っているのを見ました。
そのとき、主は仰せられました。『だれか、アハブを惑わして、攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせる者はいないか。』すると、あれこれと答えがありました。
それからひとりの霊が進み出て、主の前に立ち、『この私が彼を惑わします』と言いますと、主が彼に『どういうふうにやるのか』と尋ねられました。
彼は答えました。『私が出て行き、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。』すると、『あなたはきっと惑わすことができよう。出て行って、そのとおりにせよ』と仰せられました。
今、ご覧のとおり、主はここにいるあなたのすべての預言者の口に偽りを言う霊を授けられました。主はあなたに下るわざわいを告げられたのです。」"
列王記 第一 22章19~23節


たしかに神から霊を受けたのだが、その霊自体が偽りをふきこんだのである。アハブは預言に信頼し出かけた。少し恐れたので、ヨシャパテに王服を着せていくが、結局アハブは死んだ。終わりの時代、惑わしの霊の動きは活発になり、主の預言者が偽りの預言に利用される。

 

"そのとき、『そら、キリストがここにいる』とか、『そこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。
にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。
さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。"
マタイの福音書 24章23~25節


神の啓示を私も信じるが、預言は気をつけねばならない。預言ばかり強調して教える人がおり、そればかり求める人たちがいる。とても危険である。ジョン・ビビア師の本「主は本当にそう語られたのか」を読むべきだ。永遠の命にかかわることだから。


もし、真に純粋な心で神様だけを求め御心に従おうとするなら、神様は私たちを導いてくださる。しかし、ほんの少しでも不純な心、肉、動機が混じると惑わしの霊が働く。惑わしの霊はその機会をけして見逃さない。絶えずチャンスを狙っている。


「偽預言は100%嘘」というわけではない。偽物は本物にそっくりなのでだまされる。偽預言もほとんど合っているので、人々はだまされ信じてしまう。しかし、決定的なのは、偽預言は真の神から人を引き離していくこと。人々を盗んでいく。だから、預言は必ず吟味するよう言われている。預言をすべてうのみにし、ついていくなら、アハブと同じ運命になる。


ではなぜ、終わりの時代に惑わしの霊が活発に働き試練が起こるのを、神様はゆるすのか。これを明確に悟る必要がある。


終わりの時代とは、神のさばきが来る時代。さばきとは「ふたつのものを分けること」である。聖書には、見かけは同じように見えるが中身が違うものが出てくる。羊とヤギ。麦と毒麦。神はこれを分けていく。ふるいにかけて分ける。ふるいにかけねば分けることができない。


実は人間は、信仰生活をしていても「100%神様」ということはほとんどない。混ざっている。だから、よいものはよりよいところへ。悪いものはより悪いところへ。この分ける作業が、すなわち試練であり、偽預言である。


私の中にある「世のもの」「神のもの」。どちらかを選ばねばならない時代が来ると、どちらかを捨てざるを得なくなる。これが試練や偽預言の意味と役割である。


本当はまだ信じていないが、教会の雰囲気が良いので、何となくそこに混ざってしまったという人がいる。しかし試練が来ると、もともと信じていなかった人は出ていくしかない。今の時代の試練も同じ。より捨てて、より神のほうへ近づくかどうかが問われている。

 

"不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。"
テサロニケ人への手紙 第二 2章9~10節


終わりの日には、あらゆる悪の欺きが行われる。さばきのために。

 

"それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。
それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。"
テサロニケ人への手紙 第二 2章11~12節


もし自分の中に、真理ではなく悪を行うことを喜ぶ心があるなら、結局そちらへ流されてしまう。


エリヤの時代は、自然災害がひどかったので、アハブ王はよい葡萄畑を求めた。イゼベルがたくらんで持ち主ナボテを陥れ、これを入手した。王は民を守るものなのに、王が民のものを求めて奪い取る不法がここにある。このような時代には人々の愛が冷め、だれもが信じられなくなっていく。


神はこのとき、イスラエルに3年半の飢饉という懲らしめを与える。水がなくなり、食べ物がなくなり、人や動物が死んでいく。このような終わりの時代が来るという警告は、イエス様もしている。


現に今世界は戦争をしている。核兵器保有国もどんどん増えている。また地震津波、大雨、地球温暖化、自然災害もひどい。命を守る最善の行動を行うよう自治体が呼び掛けたりする時代である。


災害には意味がある。3年半の終わりの飢饉は、イエス様を信じるクリスチャンたちのあう飢饉である。

 

"また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。
また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。
ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。"
ヨハネの黙示録 13章16~18節

 

"また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、
そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。
そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。"
ヨハネの黙示録 14章9~11節

 

666の刻印がないと、モノを売ることも買うこともできないが、この刻印はどうしても受けてはならない。永遠の苦しみに入るからだ。

 

終わりの時代とはさばきの時代であり、神によるふるい分け作業のため、人々はすごく試されていく。このような時代におけるエリヤの役割とは、どのようなものか。それは、イエス様こそ唯一の主であることを証しする役割である。


アハブ王時代のエリヤは、真の神を証しした。エリヤがカルメル山に人々を集め、バアルやアシェラの預言者と対決するシーンがある。天から火を下していけにえを燃やせるのが本当の神だという対決だ。

 

"エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。
そこで、エリヤは民に向かって言った。「私ひとりが主の預言者として残っている。しかし、バアルの預言者は四百五十人だ。"
列王記 第一 18章21~22節
 

"私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」
すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。
民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。"
列王記 第一 18章37~39節


まるで全世界がほかの神々で満たされたかのように見える時代に、エリヤはあらわれる。真の神はこの方だ!という証人が「エリヤ」である。


エス様の時代には、バプテスマのヨハネが登場する。この時代も暗黒の時代。旧約の最後の預言者はマラキで、以来、神の預言者は400年も現れなかった。だから霊的にみな、真の神がどなたかわからない時代。救い主イエス様があらわれたにも関わらず、宗教の権力者たちが主導し十字架で殺してしまったほどの暗黒の時だった。


現代はお金が神。しかし、「この方こそ神」「悔い改めなさい、御国が近づいたから」とイエス様を証しする者が、エリヤの役割を担う者である。つまり、誰が真の神なのかを示すのが「エリヤ」であり、バプテスマのヨハネである。救い主はこの方です、と示すこと。ヨハネ自身も救い主が誰か知らなかった。

 

"私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」"
ヨハネ福音書 1章31節

 

バプテスマのヨハネには、人々を救いに導く使命もあるが、指し示す使命の方が大きかった。

 

"またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。
私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』
私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」"
ヨハネ福音書 1章32~34節


大切なのは、救い主がどなたか明確にする役目。だから、聖霊が下ると人は主の証人となる。偽のしるしや不思議でいろいろなことが起こる時代の中で、まことの神を証しする。「エリヤ」はひとりではない。


私たちがその役割を果たすにはどうしたらよいか。殉教や迫害に対して恐れが起こるのは理解できる。しかし、いろいろなことが起こる最後のとき、いったいどのような信仰で行けば打ち勝てるのか、エリヤの記事にかかれている。それは、徹底的に主の導きに従うこと。


国の罪ゆえに飢饉が宣言されたが、エリヤにも食物はなかった。しかし、慌てず祈るとエリヤに主の言葉があった。疑わずに川のほとりへ行くとその通りになった。だから従順すればよい。川が干からびてまた祈ると、やもめのことが示された。

 

"エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。
イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」
彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。"
列王記 第一 17章13~15節


エリヤの言葉と約束、ここに秘密がある。刻印を受けなければ食べ物は買えないが、神の命令に聞き従うならすべてが与えられる。普通は現実的に考えてしまうもの。でも、このやもめは行ってその通りにする。


神は耐えられない試練は与えないし、逃れの道も用意されている。最後まで主の言葉に信頼して従えばいい。艱難の時代にも、エリヤのように御声を聞くまでは動かず、聞けばすぐ動く。またやもめのように従順していくなら、すべてひどい状況の中も通り抜けることができる。


ヨハネの心を持つこと。徹底的に自分を無にして、ただイエス様の心を求めること。イエス様はこういった。

 

"まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。"
マタイの福音書 11章11節


私自身がイメージする偉大な人とは、奇跡を行うモーセや偉大な信仰者ダビデ。イエス様がなぜ、「バプテスマのヨハネ」というのか疑問だった。ヨハネは奇跡も行っていないし、悔い改めしか叫んでいない。


神様の評価基準の違いがここにある。イエス・キリストの証人、それが神にとって一番素晴らしいこと。神の見る人の偉大さとは、奇跡にはない。奇跡は神のもので、人のものではない。だから、イエス様がもっとも時間を費やしたのは弟子訓練だった。私たちに聖霊様を与える目的も、下記の通り。

 

"わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。
あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。"
ヨハネ福音書 15章26~27節


御霊がわたしについてあかしするとある。これこそが聖霊様の働きだからだ。あなたがたもあかしすると書いてある。


旧約時代の預言者も、ところどころであかししているが、目の前にある救い主を、ではない。私たちもイエス様を現実の目では見ていない。この方こそ神の子羊、と見ながら言えたのはヨハネのみで、これは彼の特権だった。だからイエス様は、ヨハネの役割は一番素晴らしいと言った。しかもヨハネは、その役目に預かりながらも、神の栄光を少しも横取りしようとしなかった。人々がイエス様についていったとき、ヨハネはこういった。

 

"彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」
ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。
あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である』と私が言ったことの証人です。
花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。
あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」"
ヨハネ福音書 3章26~30節


本当にイエス様だけをあかしし、栄光を横取りしない。それで喜ぶ。だからイエス様はヨハネを偉大だと言った。私たちも終わりの時代にこういう心を持たねばならない。


どのような時代にも信仰の仲間がいる。厳しいことが起きていく。ありえない神の力に満ちて存分に神を証ししたエリヤも、意気消沈したのを見ることができる。これは、実が結ばれなかったことへの失望感だったと思う。それで死を願った。


しかし、いつも結果は私たちが決めるのではなく、神様が決めるということを理解しなければならない。砂をかむような結果も受け入れなければならないかもしれない。エリヤは常に祈りが先だったが、最後の最後に絶望し、思った通りに行かなかったことに対して失望した。また怖くなり逃げた。


状況が悪くなればなるほど祈らなければならない。19章には「自分一人で奮闘している。残っているのは私だけだ」と神に訴えているエリヤの姿がある。


人が救われるどころか、今まで信じていた人まで裏切ったり出て行ったりすることがある。そんなとき、人の心は寂しくなって、自分も信仰の歩みをやめたくなるような気持ちに引っ張られていく。

 

"エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」"
列王記 第一 19章10節


同じことを2回も繰り返している。これがエリヤの孤独感、苦しみである。

 

"しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」"
列王記 第一 19章18節


しかし、「7000人が残してある」と主は言われた。エリヤはその存在を知らなかったが、7人ではなく7000人も仲間がいた。


終わりの時代はそれぞれ戦わなければならないかもしれないが、一人ではないことを覚えてほしい。数は少なくても、残されている人たち、信仰の仲間7000人がいることを。この世に逆らって、生活的にも霊的にも神の愛と信仰で戦っていく者は7000人もいると。


最後までみんなで勝利していこう。