きまたまジャーナル

オーロラの海に浮かぶ氷山と、アーモンドの花冠

個人的メッセージメモ 18

主は誰を召して用いるのか 2023.3.5.

ダニエル・リー師

https://youtu.be/n4QaRq5uXTw

 

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アズベリー神学校(アメリカ・ケンタッキー州)で、リバイバルが起きている。礼拝堂に入るために6時間並ぶが、人々は喜びを持って待ち、大勢の人に悔い改めと癒し、また平安が与えられている。


なぜ、この小さな無名の街でリバイバルが起きたのか。


主ははじめに、この街のために祈る人たちを起こされた。その一人が、中国系マレーシア人の神学者。彼はシカゴのトリニティ神学校を卒業し、マレーシアで14年間教授として働き、2015年に一時的な訪問教授としてアズベリー大学へ来たところであった。


彼は

「あなたの今の教授職を捨てて、フルタイムで、このウィルモアのリバイバルのために祈りなさい」

との語りかけを聞いた。帰国したあと、その語りかけをどのように受け入れればいいか悩んだが、何度も確かめてそれが主からの促しと分かり、挑戦を決心する。2019年、マレーシアからウィルモアに引っ越して祈り始めた。2020年夏からは、人々へのメッセージボードを体につけて、毎日祈りながら歩いた。


6000人の小さい町だから、彼を知らない人はなく、彼はサンドウィッチマンとかサインを持った人と呼ばれた。他にも祈る人たちはだんだん起こされ、街のあちこちで祈る姿が見られるようになっていく。


2023年2月8日、ついに、ある牧師の謙遜のメッセージによりリバイバルが起きた。「リバイバルを起こす方は神様。神様の主権を認めて、真実な謙遜さを持って、愛と哀れみと恵みを求めよう」と牧師は繰り返した。


リバイバルが偶然に起きることはない。必ず、神様に飢え乾きを持つ人の祈りを通して主が来られる。本当の飢え乾きを持って祈り、神様の主権を認め、その愛と恵みを切に求めるとき、主が来られることを信じよう。


今日はイエス様が弟子たちを呼び集める場面を通して、神様がどのような人を召して用いるのかを考えたい。


"イエスガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。

エスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」

彼らはすぐに網を捨てて従った。

そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。

彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。"

マタイの福音書 4章18~22節


エス様が人々を召す条件の1番目が、「今の自分の仕事に熱心に忠実に働いている人」である。


エス様が私たちを弟子として神の働きに呼ぶとき、私たちが今持つ能力・力・富は見ていない。


神が見るのは、「その人に働きを任せたとき、最後まで精を尽くして忠実にやっていけるか否か」である。自分の置かれた環境や仕事、家族や周りとの人間関係に問題があると、つぶやいて仕事をおろそかにしたり、関係改善の努力も怠る人がいる。そのような人は、ますます神様の恵みから離れてしまうので、召しに預かることはない。


神様は、今の状況の中で人がどのように振る舞うか、全部見て採点している。自分がどこに置かれても心配することはない。自分の運命も心配しなくていい。ただ最善を尽くし忠実になることが大事である。


「この人ならどんなことを任せてもちゃんとやる」と神様が認めると、必ず働きのために呼び出す。ヨハネヤコブは、ときには夜通し働く人たちであった。自分の父を助けて漁をする、親思いで忠実な人という点も見ることができる。ペテロも、自分の家に熱病の姑を住まわせ世話をしていた。


"空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。"

マタイの福音書 6章26節


空を飛んでる鳥を見なさいと、イエス様は言った。休んでいる鳥ではなく、働いている鳥を。


今の環境や仕事に希望を持てない人もいると思うが、神様が自分を採点していることを、本当に覚えてほしい。


ここで合格すれば、主は必ずあなたを呼び出し、他のところに移してくださる。だから、どんな環境でも精を尽くして熱心にやること。また他人の仕事だとしても、主人に益となるよう忠実を尽くす。これがとても大切。その姿勢を主が認めれば、必ずもっと大きなところで用いてくださる。


神様は私たちを使う前に、いつも私たちをテストし評価する。まず小さなことから任せ、他人のものを任せる。そしてどのようにそれを管理するか見る。合格すれば、本来その人に与えるべき計画を任せてくださる。


"小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。

ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。

また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。"

ルカの福音書 16章10~12節


不正の富。

私たちはこの世の富を価値あるものと考えるが、神様から見たら小さなものである。でもそれに忠実でない人が、まことのものを任されたとき、本当にちゃんとできるだろうかということだ。


会社勤めなら、主の目をもっと意識しよう。一生懸命やっても、事業者が得するだけと思ってはならない。神様が私たちを見て評価する法則なのだ。任せられたことに忠実であることが、人生を開く秘訣になる。


ヒョク伝道師(ブラザー・ヒョク)の話をしよう。

彼は自分が伝道者や牧師になるとは、微塵も想像していなかった。本当にただ主を喜ばせるため、熱心に奉仕した。2015年、ナイジェリアの有名な預言者TBジョシュアが韓国で聖会をした。ヒョク師は英語ができたので、ナイジェリアスタッフの通訳や翻訳のために、ボランティアをした。有名人TBジョシュアに会いたかったとか、その方から運よくアプローチでも受けられればとかいう下心は全くなかった。ただ純粋に、神の働きだからと熱心に奉仕をした。人々の前に立つ働きでないにもかかわらず、精を尽くして働いていた。夜通し奉仕することもあったらしいが、一切不平を言わず奉仕したという。


その姿を見て感心した人々が、TBジョシュア師に告げた。若い青年がいるが、あんなに裏で熱心に奉仕する人を見たことがない。みんな人が見ていないところでは適当にやるが、彼は違う。それで、TBジョシュアの方から彼に会いに来た。そして一目で気に入り、ナイジェリアに連れて行き弟子にした。


エス様が人々を召す条件の2番目が、神様の命令に従順するかどうか」。これは難しい。イエス様に対する絶対的な信頼と信仰がなければ従順できない。でもペテロとアンデレ、ヨハネヤコブはイエス様がお呼びになったとき、すべてを捨てて従ったと書いてある。


"彼らはすぐに網を捨てて従った。"

マタイの福音書 4章20節


"彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。"

マタイの福音書 4章22節


神様はなぜここまで要求するのか。それは、神の国を本気で第一に求める人でなければ、神の国を建てていくことはできないからである。


私たちにはいつも、個人的・人間的な事情がある。生活のために仕事もしなければならない。しかし、もしそれがいつも優先するなら、何か起きるたび神の働きをやめなければならない。神の国を第一に求める人とは、今?という状況であっても、主がお呼びになったらそれを捨てていく人。だからイエス様は、どんな状況の中でも召しに従う人を選んで、神の国を建立していく。


アズベリー大学のリバイバルのために祈り手として用いられた教授の話を考えてみよう。マレーシアの教授職をやめ、フルタイムでウィルモアのために祈りなさいと語られたが、もし主が私たちに今そう語ったなら、どのくらいの人が自分の事情を捨てられるだろう。他人の話だからすごいと思うが、自分のことになると本当に難しい。


この教授もかなり悩んだ末、マレーシアから移住してフルタイムで祈った。また悔い改めなさいというボードを持って、リバイバルが来るまで2年以上、町を歩きながら祈った。これも本当にすごい従順と思う。


リバイバルは来るかわからないのである。これから確実に来ると分かったなら頑張って歩けると思うが、ボードを持って歩けばいろんな嫌な人に会うこともあっただろう。負けずに最後まで行ったというのは本当にすごい。


神様の働きのために従順するとき、聖霊様も 父も私たちと共にいて働いてくださる。


"私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」"

使徒の働き 5章32節


誰に聖霊様を注ぐか。答えは、従う者にである。ヒョク師は韓国で軍隊を終え、ナイジェリアから帰国した後、韓国でビジネスをした。伝道者になるつもりはなかったが、ビジネスをしながらも、主を喜ばせたいと常に思い、伝道したり、クリスチャンを優先採用したりしていた。


ビジネスは順調だったが、2020年10月、突然「会社を整理し、その資金でコロンビア伝道に行きなさい」と言われた。そのとおり会社を畳んで、そのお金で南米宣教へ出かけていく。一人では何もできないから、何人かの同僚を連れて行った。当初3ヶ月の予定だったが、主から「次はメキシコに行きなさい」と言われ、メキシコで伝道集会を続けた。すべての働きは自腹だったので、経費節約のため借りたバスの中で寝泊まりしたそうである。そのときの働きがYouTubeに残っており、彼は有名人になっていった。


神様のすばらしい働きに、偶然はないのである。誰かの主への絶対的な従順があるから、その人たちをとおして神様の恵みが周りに流れていく。その模範的な例はイエス様である。


"キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、

自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。"

ピリピ人への手紙 2章6~8節


エス様が私たちを呼んだときにこう言う。自分を捨てて、日々自分の十字架を背負ってついてきなさいと。そして、イエス様ご自身が先にそうした。


エス様は「神様」という身分を捨てた。自分が神であることを捨てるほど、自分を否定して捨ててこの世に来て、しかも次は自分を通して神様がなさろうとする御心のために、十字架の死にまで従った。


従順の結果、イエス様は万物の主となり、全ての名にまさる名を受けた。


"それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、

すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。"

ピリピ人への手紙 2章9~11節


素晴らしい主の業を行う人を見ると、羨ましい、私もそうなりたいと思う。それは良いことで、ぜひチャレンジをするべきだ。


神様は本当に平等で、えこひいきしない。特別な人だけに油を注ぐのではない。私たちがどのような態度で神様に接するかによって、神様からの油注ぎがくる。ヒョク伝道師も前にそう言った。人々は私を特別な人だと思うんですが、そうじゃない。みんな同じように油注ぎを受けられますよ、その秘訣は従順ですと。


"主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。"

歴代誌 第二 16章9節前半


神様が神様の目的のために私たちを創造して罪から救い、永遠の命まで与えてくださった。それは神の御心をなすためである。その御心に合わせていくなら誰でも油注ぎが来る。


召しがあるときに自分の事情を捨てて、その召しに従う。そのような人に神様は力を注ぐ。それは当たり前だと私は思う。


誠実と従順の練習は、まず神の御言葉から。御言葉には従順が難しいけれど、主になにか言われたら従える、それは嘘だ。


もし、自分を全部捨てて従う自信がなければ、主に用いられている人たちをねたんだり非難したりせず、その人たちの助け手になってほしい。そうすれば、彼らと同じ報いを自分も受けられる。


"預言者預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。

わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」"

マタイの福音書 10章41~42節


自信がなかったら助ければいい。献金も自分の報いになると信じよう。


エス様が人々を召す条件の3番目は、「永遠の命を価値を明確に悟った人」。


エス様は、人々の命を救うために私たちを用いる。イエス様が私たちを呼び出す時期とは、自分が本当にどうしようもない罪人で、永遠の刑罰を受けるべきであることや、罪と刑罰から救い出せる方はイエス様しかいないことを心から悟って信じるとき。その人たちは心から自分の罪を悔い改め、イエス様を救い主また主人として信じ従うことを決心できる。本当に生まれ変わった人を主は呼ぶ。その人たちには、この世のことは過ぎ去ったことなっていくから。素晴らしい天国を手に入れると価値感は変わる。


その経験がなければ、どうしてもこの世のことが大切に思えるので、ついていけない。


救いの感激があり、死後の裁き、永遠の天国と地獄を心から信じると、どんな苦しみがあっても、殉教までイエス様に従っていく。


なお、教役者としての召しは明確である。本当にわかる形で来るから、心配せず、現状に忠実になってほしい。ペテロを見ればよくわかる。


実は、主は最初からペテロを召したわけではない。イエス様はペテロと3回以上会っている。最初はペテロは準備も何もできていなかった。


"彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った」と言った。

彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」"

ヨハネ福音書 1章41~42節


初対面のイエス様が、ペテロの名前も、父の名前もちゃんと知っている。今はシモンだが将来はペテロと呼ばれるようになると、個人預言をした。ペテロも驚き、また大きな期待も持ったと思う。しかし、イエス様もこれ以上何も言わない。呼ぶ時期ではなかったのである。


ペテロはこの安息日に奇跡を見た。日が暮れてからは、遠くからも病人たちが押し寄せたが、イエス様が癒して悪霊を追い出すと、悪霊が「この方こそ神の子だ」と言うのである。ペテロはそれを目の当たりにし、この方は神の子かもしれないと思ったが、まだ心は開かなかった。だからイエス様はペテロに何にも言わない。


"話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。"

ルカの福音書 5章4節


3度目の出会いである。

魚は夜には深いところにおり、昼になると水面のプランクトンを求めて浮かんでくる。しかも昼間は魚の動きが早くなるから網では取れない。だから夜に漁をする。つまり、このとき深みには魚がいない。


ペテロは正直、イエス様の言葉に納得いかなかったが、イエス様は普通の方ではないことも分かっていた。だから言う。


"するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」"

ルカの福音書 5章5節


網をおろすと奇跡が起きた。


"そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。"

ルカの福音書 5章6節


この奇跡でペテロは完全に心砕かれるようになった。この方は本当の神の子であり、キリストだと心から悟って、あの水の深みまで全部知る方は、自分の中身をも知っているという結論に達した。自分の汚い思いや、今までのすべての罪。この方は全部知っていると思ったら、もうイエスの前に立っていられなくなってしまった。


"これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。"

ルカの福音書 5章8節


この告白は重要である。本当に自分が罪深い人間だという告白、これが新しく生まれ変わる出発になる。これこそ神様の恵み。その人は本当にイエス様に出会ったからそれがわかるのだ。


今までは、自分にもいい点があるかのように思っていた人がイエス様と本当に出会ってしまうと、罪人だと悟るようになる。裁きも永遠の天国地獄も、心から信じるようになる。イエス様だけが唯一の救い主だと心から信じるようになる。この人たちには救いの確信と感激があり、価値観が変わっていく。


そのような人たちを召すのである。


"シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」"

ルカの福音書 5章10節


5つのパンの奇跡が起きた後に、人々は驚きと感激でイエス様を王に立てようとした。

エス様に従っていけば、もう病気の心配も、食べ物の心配もいらない。イエスが全部やってくれる。しかしイエス様は群衆にこういう。


"イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。"

ヨハネ福音書 6章53節


この言葉にみんなつまずいて、イエス様から離れていく。奇跡を体験してイエス様を信じても、生まれ変わらなければ離れる。どんな病から癒されても離れる。だから、生まれ変わって永遠の命の価値観を持たなければ、離れるようになることを、主は分かっているのである。


"こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」

すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。

私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」"

ヨハネ福音書 6章66~69節


なぜ、すべてを捨ててイエス様についていかなければならないのか。永遠の命がそこしかないからだ。それを悟った人は、自分の事情をおろしてついていく。


救いの確信がない方は、聖霊様に切に祈ってほしい。私の罪に対して、義について、永遠のさばきについて、知恵をくださいと願っていくと、必ず主が示してくださる。


救いの確信があれば、自分の計画でもっと大きな神の働きをしようとせず、ただ今いる自分の場所で忠実になることだ。精を尽くしてやることだ。神様が呼ぶときは必ず呼ぶから、自分から手を上げて、自分から何かしようとして、自分からこけて、そんなことはしないでほしい。主の目に認められるためには、今いるところで合格しないといけない。合格すれば必ず召されると信じよう。


訓練は続くが、その訓練をとおして油注ぎ、必要なものを与える。いつも主の恵みと哀れみを求める謙遜な人になろう。