きまたまジャーナル

オーロラの海に浮かぶ氷山と、アーモンドの花冠

個人的メッセージメモ 22

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「平和をつくる者への祝福」23.7.2.

リビングウォーターチャーチ 

ダニエル・リー師

https://youtu.be/brmx65eeqjQ


人生には苦しみもあれば痛みもある。その原因は人間関係である場合が多い。いやいやとんでもない、原因はお金だ、という人がいるだろう。お金がなければもちろん苦しい。けれどもよく考えれば、それよりもっと大変な苦しみを与えるのは、やはり人間関係だとわかる。


借金があっても、家族の仲が良く、周りとの関係も良ければ、実はどんな問題も乗り越えることができる。


反対にいくらお金があっても、夫婦仲も親子関係も悪く兄弟喧嘩が絶えない、あるいは周りと折り合いが悪ければ…おいしいものを食べていても、砂を噛むような思いになる。良い家に住み良い服を着ても、喜べないし楽しめない。


"野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。"

箴言 15章17節


"乾いたパンが一切れあって平穏なのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。"

箴言 17章1節


平和はとても大事だ。本当に幸せになるには、まず家族や周りの人と平和を保たねばならない。さて、今日の御言葉はこれである。


"平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。"

マタイの福音書 5章9節


よく読むと、イエス様は「平和な人は幸いです」と言っていない。「平和を作る人が幸い」だと説いている。


生まれつき、穏やかで平和な人がいる。喧嘩もしない、争いもしない。とても素晴らしい性質だが、神の子どもの祝福とは、不和があるところにその人が入ることで、平和をもたらしていくこと。それがすなわち幸いな人である。


平和という観点から見ると、人は2つの部類に分かれる。平和を作る人と平和を壊す人。イエス様が平和を作る人を神の子と呼んだなら、不和を作る人とは、もう言わなくてもわかるだろう。実際に、サタンはそのような人たちを用いて、共同体や家族や教会を破壊しようとする。


だから私たちは、自分がどちらに属すのか、本当に気にしないといけない。自分の家庭、教会、職場、学校。行く先々で、自分が不和を平和に変えていくのか。それとも元々平和なのに、自分が入った途端に争いが起こったりするのか。本当にこれを冷静に考えないといけない。


そんなつもりではなくても、行くところに不和が起きたり、長く教会に通っていても本当に心を割って話せる人がいなかったりするなら、それは自分に問題がある。これは認めないと治らない。そんなことでは絶対幸せになれないと分かってほしい。


神様が私たちを神の子として選んだ目的の一つは、私たちによって不和をなくし平和を作るためだ。一度しかない人生を、もし互いに争い、傲慢と不和の中で費やすなら、本当に私たちは惨めで不幸な人になる。でも私たちが平和のために働いて周りと仲良くし幸せに暮らすなら、とても大きな祝福となる。


平和を作ることには、いつも相手が伴う。キリスト教は「関係」がすべて。いかに関係性を大事にするかが、人生の実になっていく。相手がいなければ、愛することも平和を作ることもできない。では私たちは誰と平和を持つべきかというと、まずは神様と自分自身。これが平和でなければならない。

 

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私たち人間は原罪を持って生まれ、また自分自身も罪を犯すことで神様の敵となった。


"さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。"

エペソ人への手紙 2章1~3節


人間は神様と敵対関係に生まれたが、自分の霊では、実はそのことをわかっている。死んだら永遠の刑罰を受けねばならないと分かっている。だから人間は、静かにしていると何か不安や恐れや焦りがやってくる。


それを払拭するために、趣味あるいは酒やタバコや麻薬にふけったりする。しかし結局、そのサイクルが人をますます破滅に導く。


創造主なる神が目的を持ってこの世に私たちを送ったのに、自分勝手に人生を費やしたら、必ず死後にさばきを受ける。私たちは創造者の前で人生を清算するのだから、何よりも神様との関係を正さなければならない。どのようにして正すのか。


これは罪の問題なので、とにかく罪を取り除かねばならないが、私たち自身にはできない。


"実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。"

エペソ人への手紙 2章14~16節


罪があれば必ず死なねばならないのが、神の掟(律法)。私たちが犯した罪ゆえ、私たちが受けねばならない刑罰である。しかしイエス様が世に来られて、代わりに死をもってすべての罪の代価を支払った。それがキリストの方法、平和を作る方法だった。イエス様は十字架で死んで、すべての罪を葬り廃棄した。

 

罪があれば、人間の間でも壁ができ、敵となってしまう。全部イエス様が取り除いたことを信じてほしい。


「心から自分の罪を認めて悔い改める」とは、罪を捨て神に立ち返ることを意味する。ただごめんなさいで終わるのではない。神様がいることと、イエス様の十字架の贖いを信じるなら、その人は神様との壁であった罪を全部取り除かれる。それで、神様と私たちは和解して一つの家族になる。神様と和解し一つになると、私たちの霊には本当に大きな喜び、平安、感謝が湧く。

 

もしいつも不安や恐れがあるなら、神様との関係が正しくないということだ。大きな問題はないのに不安があるなら、実は神様との間に問題がある証拠。必ず罪を改めてイエス様を信じないといけない。


信じたにもかかわらず不安や恐れが続くのは、知らないうちにまた罪を犯して、神様との関係がずれているから。悔い改めてもう一度関係を正さないといけない。


神様との関係が正しい証拠は、いつも心の平安と喜びなのである。神様との関係が正しくなれば、環境や状況に関わらず、本当の平安と喜びと感謝があると信じよう。


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次は、周りの人と平和を作ることだ。イエス様の十字架の縦棒は神と人の関係を表し、横棒は人と人の関係を表す。イエス様は、十字架を通して神様と私たちの関係を正し、人と人の関係も正している。


神様はとにかく私たちを一つにしようとするが、悪魔はとにかく分かれさせようとする。理由はあれど、結果的に分かれていくなら、すなわち「悪魔の働きに負けた」のだ。しかし一つになるなら、神様の働きに自分も入っている。


"平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。"

エペソ人への手紙 4章3節


一致させようとする神様とともに、私たちも一致を熱心に保たないといけない。すべてを神様が計画なさるが、私たちも同意し一緒に働くのが信仰生活である。全部神様がやってくれるのではない。それでは私たちの人生には何の意味もない。あなたの意思はどこにあるのかと問われるのが信仰生活である。


では、私たちは周りの誰と和解すべきか。まずは自分である。自分の心に平安と喜びがなければ、他人と平安と喜びを持てない。平安とは、結局神様と自分の関係である。


神様は、私たちが罪を心から悔い改めてイエス様を信じれば、本当に完全に赦す。しかし人は、人生がうまくいかないときや失敗したとき、「神様は私を赦していないのか?」と思うもの。これは間違いである。


罪が赦されたにもかかわらず、自分が赦されたことを信じないと、不安と恐れが残る。だから神様の前に本当にうまくいかなかったり、失敗したりすると、「神様にまだその罪は許されてない」とか「私は失敗して当然だ」とか、自分を変に正当化したりいじめたりしながら慰めを求めることがある。これは違う。


罪がなくなるのは信仰によってのみ。私たちが頑張って罪がなくなることはない。神様が赦したものは赦されたのである。皆さんの苦い記憶を信じないで、いつも神様の御言葉を信じよう。


"わたしが彼らの不義にあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」"

ヘブル人への手紙 8章1節


2度と思い出さない。それは完全に赦したということだ。


今の状況がうまくいかないのには、原因がある。私たちの不信仰や否定的な考え、また何か罪を犯してしまった、自分の人格が足りない、こういうところから来る場合が実は多い。だから先ほど言ったように、心に不安がまだ残っているなら、まず、過去に心から悔い改めた罪は本当に赦されたと信じるべきだ。


悪魔が、私たちの宗教的良心を攻撃する場合もある。変に良心的になり過ぎるよう仕向け、私たちが前進できないようにする。これも信仰で乗り越えないといけない。


赦されたことを信じたうえで、今現在引っかかるものがあれば、悔い改めていく。霊的成長のため、神様が私たちに苦難を与える場合もある。ただ信仰を持って乗り越えていくことだ。


そういう意味において、まず自分自身と和解しないといけない。心に平安と喜びと感謝がいつもなければ、決して平和は作れない。偽善になる。


環境が完璧だからといって、人は感謝の生活を送ることはできない。環境と心が別にならなければ、本物の信仰者でない。環境は私に平安を与えられない。環境によらない心の平安を持つことである。

 

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つぎは、家族と和解すること。霊が安息を得て新しい力を得る場所が教会とすれば、体と心が本当に休みを得て新しい力を得る場所は家庭しかない。外へは、みんなそれなりにちゃんとして出てくる。ちゃんとしていなくていい唯一の場が家庭である。家族の中で、私たちは完全な安息を得る。誰かに気兼ねすることも、束縛されることも、形式ばることもない。家庭では本当にすべての荷を解いて自由になれるから休める。家族の中で不和が続くと、新しい力を得るどころか、さらにストレスや重荷を受けてしまう。


"しっかりした妻は夫の冠。恥をもたらす妻は、夫の骨の中の腐れのようだ。"

箴言 12章4節


夫婦仲が良ければ、お互いがお互いにとっての栄光、冠となる。しかし不仲なら、骨が腐るような痛みを与え祈りも聞かれない。


"同じように、夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りは妨げられません。"

ペテロの手紙 第一 3章7節


不和を作っておきながら幸せを生み出すなど絶対ありえない。2人の人が愛し合い、もっと幸せになるため結婚するが、お互いに我慢し、夫婦喧嘩をせず仲良くしなければ、本当に悲しいことになる。


妻の小言・夫の無神経が原因で、夫婦にズレが生じるという統計がある。ズレたまま平行線を辿り、けして交わらない。これは私自身の話だが、結婚後は相手のことを完全に自分のものだと思ってしまうのが原因かと思う。相手はもう自分のものだから、結婚前と同じようには接しない。尊重すべきなのに、わがまま勝手に振る舞い、すごく相手を傷つける。また立場が全然違うのに、相手も自分と同じように考えていると錯覚しているので、相手の意見に怒ってしまう。そうするともう、このズレは治せない。


本当に私は愚かだったので、子供たちも妻も自分のものだと思って、あまりに自分勝手に振る舞って傷を与えてしまった。家族は世の中で一番近い隣人。隣人にはいつも礼儀正しく話をしたり接したりするはずだ。だから家族にもそうしよう。そうすればお互いに尊重しあえる。


聖書には、妻を尊敬しなさいと書いてある。尊敬するなら関係は良くなると思う。相手が無神経な人なら話が通じないから、壁に向かって話しているようで、頭が狂いそうになるかもしれないが、大事なのは諦めないこと。諦めないで話し続ければ壁にも穴が開くと信じよう。何よりも大事なのは家族のために祈ること。人間の努力には限界がある。それを超えることはできないが、たとえ難しい相手だとしても、聖書にこういう言葉がある。


"主が人の行いを喜ぶとき、敵さえもその人と和らがせる。"

箴言 16章7節


誰かとの関係がもう完全に修復不可能だとしても、私たちが神様の喜びとなるなら、神様がその人と和解させてくださる。


私はこのみことばが本当に好きだ。私たちには、やろうとしてもうまくいかないことがたくさんたくさんある。でも、自分には力が足りないけれど、主の御心を行って主を喜ばせようとすると、神様が本当にすべてのことを調整してくださる。


家族は本当に大切で、一番大きな影響を受ける。だからどんな問題があっても仲直りをして、ちゃんと良い手本を見せようとしないといけない。結局それが子供たちに流れていくからだ。本当に私たちは、永遠に生きる存在。永遠を思っていつも深く考えていこう。

 

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次は、周りの人と平和を保つこと。聖書はこう書いている。


"自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。"

ローマ人への手紙 12章18節


英語聖書・韓国語聖書にも、「できる限り」と書いている。こちらが努力しても絶対平和になれない相手もいるからである。


"あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。"

ローマ人への手紙 12章14節


"だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。"

ローマ人への手紙 12章17節


神様は、私たちのためにこれを命じている。誰かが私たちに、本当にひどいことをしたとする。その人のことを思うたび、もう憎くて仕方がない。その憎い人が教会にいれば、行きたくない。会社にいれば、会社も行きたくない。学校にいれば、学校にも行きたくない。もうその人のことを考えるだけで、自分の喜びも感謝も全部その人に吸い取られてしまう。そうすると、一番不幸になるのは私たち自身である。


相手が100%悪いとしても、その人を憎む限り私が損をする。だから神様は私たちのために、相手がどんな人であってもさばきを神様に委ねて、私たちには赦しなさいと言われた。


"ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。"

マタイの福音書 5章23~24節

 

誰かと敵対するなら、神様は私たちの礼拝も受け取らない。だから仲直りする必要がある。


もちろん、できる限りとある。和解し平和をつくろうと努力しても、相手が拒む場合はある。神様も、私たち人間と和解するためにイエス様を送った。にもかかわらず受け入れない人もいた。それなら仕方がない。

 

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次は、私たちは神様と未信者とを和解させるものとなるべきだ。これもとても大事な役割である。真の神の子であるイエス様は、神様と罪人である私たちの間に平和を作るため、代わりに十字架で死ぬことまでした。その務めは、今は私たちに託されている。


"これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。"

コリント人への手紙 第二 5章18節


19節には、和解の言葉を委ねたと書いてあり、20節には、私たちはキリストの使節(大使)だと書いてある。イエス様がなさったことを地上で成していくとは、人と神様が平和を持てるよう福音を伝えていくということであろう。


平和を作ることは、私たちを実生活の幸せと使命を果たすことにつながる。平和を作る人になっていこう。


良い関係を作るために一番大事なのは、言葉に気をつけること。私たちはお互いに何によって傷を与えたり受けたりするか。言葉だ。人を無視する言葉や、トゲのある言葉、毒を含んだ言葉、呪いの言葉、殺す言葉、憎しみの言葉。言葉は目には見えないが、霊的にとても大事な部分だ。神様は言葉で全世界を創造した。人間の言葉にも力がある。


言葉を話すのは種を蒔くのと同じ。良い言葉を使えば良い種を蒔くことになるし、悪い言葉を使うと悪い種を蒔くことになる。クリスチャンは、言葉さえ正しく使えば必ず祝福されることを信じてほしい。


もし今誰かと仲違いしたとしよう。決定的に敵対してしまったとすれば、原因は言葉である。絶対言ってはならないことを言ってしまうと、もう仲直りできない。生かす言葉があれば殺す言葉がある。平和を作るのは生かす言葉。仲を悪くし不幸を作るのは、殺す言葉。本当に気をつけねばならない。


エス様は平和を作るために死んでくださった。平和を作るのは、それほどまでに大事なこと。私たちが平和を作っていくなら神の子と呼ばれる。不和を作る言葉は絶対言ってはならない。


"愛を追い求める者は背きの罪をおおう。同じことを蒸し返す者は親しい友を離れさせる。"

箴言 17章9節


人々の罪を赦して覆ってあげるのは、愛を求めて仲直りをしようとすること。


悪魔はギリシャ語でディアブロスという。その意味は、中傷する者、訴える者。相手のことを誹謗中傷したり、謗ったりすれば、自分も知らぬうちに悪魔に用いられている。


悪魔は、神様とアダム・エバの関係を引き裂いた。今もずっと、人と人を切り離すことをやっているのが悪魔である。でもイエス様は、別れたものを一つにさせようとする働きを続けている。


私たちの教会で仲が悪くなるのは、ある人がいないところで他の人たちが集まってその人の話をすることである。噂話は楽しいらしい。


"陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のよう。腹の奥に下って行く。"

箴言 26章22節


陰口は楽しいが、家庭でも職場でも学校でも教会の中でも、人間関係を悪くさせる元凶になる。本当に気をつけよう。当事者がいないところでは、その人の話をしないのがいい。今日からやめよう。もし誰かがそういうことを言い出したら阻止するか、私は聞かないよと言って離れるかしよう。


"人を中傷して回る者は秘密を漏らす。唇を開く者とは交わるな。"

箴言 20章19節


そのような人とは、交わらないように。もし誰かに話があれば、直接話をしよう。人は正直に言わないものだ。何があったのと聞くと、自分の過ちは全部取り除いて、相手の過ちばかり言う場合もある。それでは仲良くできない。平和を壊すなら、神様に本当にすべて裁かれることを知ろう。あなたから平和を作るには言葉がポイントである。


"自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。"

ヤコブの手紙 1章26節


神を熱心に信じると言いながらも自分の言葉を制御できなければ、その人の信仰心はもうダメなのである。言葉は種まきだから。


"「いのちを愛し、幸せな日々を見ようと願う者は、舌に悪口を言わせず、唇に欺きを語らせるな。悪を離れて善を行い、平和を求め、それを追え。主の目は正しい人たちの上にあり、主の耳は彼らの叫びに傾けられる。しかし主の顔は、悪をなす者どもに敵対する。」"

ペテロの手紙 第一 3章10~12節


自分から出た言葉が結局種まきとなって自分に帰ってくる。だから良い言葉、他人のための祝福の言葉を言うことで、その祝福を刈り取ることを信じよう。


平和を作る者は幸いだ。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。アシジの聖フランシスコの平和の祈りを共に読んで終わりたい。

 


主よ私を平和の道具とさせてください

憎しみのあるところに愛を

罪のあるところに 赦しを

争いのあるところに一致を

誤りのある所に真理を

疑いのあるところに信仰を

絶望のあるところに希望

闇のある所に光を

悲しみのあるところには喜びを

もたらさせてください

主よ私に 求めさせてください

慰められるよりも慰めることを

理解されるよりも理解することを

愛されるよりも愛することを

人は自分を捨ててこそそれを受け

自分を忘れてこそ自分を見いだし

許してこそ 許され

死んでこそ永遠の命に復活するからです