きまたまジャーナル

オーロラの海に浮かぶ氷山と、アーモンドの花冠

個人的メッセージメモ 17

リツパの祈り 2021.6.11.

ジュン・リー師

https://youtu.be/Eiz3onWEVF4

 

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"大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。

しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。"

ルカの福音書 23章27~28節

 

ここには2種類のクリスチャンがいます。イエス様についていく大勢の民衆と、イエス様のことで泣き悲しむ女性たちです。


全員イエス様についていきますが、イエス様は全員には語られず、まず悲しむ女性たちだけに応えられました。ここから何を学ぶことができるでしょうか。


まず背景を知る必要があります。これはイエス様が十字架にかけられる直前のお話です。この前にイエス様はあらゆる人たちから偽りの証言を受け、不利な立場にいました。ピラトが「あなたに対して不利な証言をたくさんしているのに、あなたは何も答えないのですか」と尋ねても、イエス様は何も答えず、それにはピラトも驚いたと書いてあります。


これは本当に驚くべきことです。私たちもその立場で、濡れ衣を着せられ冤罪で有罪判決を受けたら、たとえ静かにと言われても無罪を主張していたはずです。しかし、イエス様は自分の死が近づいて不利になってさえ、口を開くことはありませんでした。そのイエス様が口を開いたのが、嘆き悲しむ女性たちに対してだったのです。


これを通して私たちが学べるのは、主の前に出るときに、神様の中で嘆き悲しまなければいけないということです。


罪の中でではなくて、主の中で嘆き悲しみ、苦しいときに必ずイエス様を選択する。そしてイエス様を選べば、必ずイエス様はその人々に対して口を開き、答えと導きを示す。私たちはこれを覚える必要があります。


ただイエス様についていくだけの民衆になってはいけないのです。教会にただ形式的に通っていれば、自動的に天国に行くのではないのです。苦しいときもあれば辛いときもあるけれど、私たちが大勢の民衆側ではなくてイエス様に行くとき、イエス様が必ず口を開けて答えを示してくださる。その恵みを慕い求めていきたいとおもいます。

 

神様の御声が聞けない、メッセージが恵まれないなどあり得ないことで、それは私たちの態度にかかっているということもまた教えてくれている箇所です。


泣き悲しむ女性たちに、イエス様は「自分自身と子どもたちのために泣きなさい」とお答えになりました。このことについても分かち合っていきます。


まず私たちは、イエス様がどのように家庭を重んじているのかを知る必要があります。使徒行伝が描いているのは教会の誕生ではなく、信じる者同士の家庭の誕生であると捉えることもできます。


家庭・家などと書かれている単語と、教会で起きた出来事を比べてみると、教会については18回ぐらい書かれているのに対し、家庭で何が起きた何があったということは約38回、つまり倍くらい記録されています。


キリスト教の信仰生活において誤解して欲しくないのが、ここです。「家庭は仕方ないけれども、それでも教会で慰めを受けて、力を得て、日々頑張って生きていく」ではないのです。むしろ主は、家庭での時間をすべおさめてくださり、私たち一人ひとりに幸せな家庭生活を与えようとしておられると信じなければいけません。これが神様が聖霊様を注がれた大きな理由の一つでもあります。


教会の中だけ、日曜日だけ、自分の中だけではなくて、家庭の中に、神様が統治してくださる幸せがあるのです。


ある先生が言いました。「私たちは死んだあと何も天国にはもっていけないけれども、それでも家族とは一緒に行ける」


まさにこれが神様の御心です。私たちもこの主の御心を持って、今後どのように自分の家族に対して生きるのか。これを考えていく礼拝の時間にしていきましょう。


今日は、親と子どもという単語をたくさん使いますが、「私は独身だからいいや」などと思わず霊的に捉えてください。救われているあなたが家庭に1人いるとしたら、あなたが霊的な親です。父母、お兄さんお姉さん、全員子供だというふうに考えてください。


またこれから子育てする人も、参考にし今後適用するというふうに、霊的な耳を主に傾けていきましょう。


家庭の回復が神様の御心ですけれども、改善していくために、必ず通らなければいけないことがあります。まず問題点を見つけ、それを真摯に認めなければ、決して改善にはいたりません。


うまくいっていない家庭があるとしたら、サタンからの攻撃なのか、自分の御言葉に対する不従順が招いた結果なのか、見極めなければいけません。問題点をはっきりさせた上で、そこにポイントを合わせていくとき修繕されます。


神学生時代、宣教師時代、さまざまな教会に所属しました。本当にそこからたくさんのことを学ぶことができ、今でも感謝しています。各教会では、必ず子供のミニストリーに携わっていました。不思議なことに、そこで見たのは、すべての教会のクリスチャン家庭が本当に破壊されているという事実でした。しかし多くの場合、この御言葉で答えが解決すると思います。


"むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。"

箴言 13章24節


日曜学校に子どもを預ける親御さんの安心のため、私は教員免許を持っています。取得のため勉強しましたが、今の聖句を教えるところはどこにもありませんでした。世の中では、鞭を控えることは甘やかすことだとは書いてあります。しかし憎むこととは書いてありません。


今日すぐにでもやめないといけないこと。それは、鞭を控える、つまり真理を示さない、導かない、わかっていても語らないということです。「ダメだよ」と言わない愛は、肉的な愛です。それは霊的に、その子に憎しみを与えているのです。


これをはっきり自覚しなければ、これからもその子を憎み続けてしまうことになります。確かに言いづらいときもあります。それでも親には、神様があなたがその子どもたちを正すように、また将来わたしの元へ連れてくるようにという、義務と責任と使命を与えたことを悟り、神様の御心に戻りましょう。


勘違いしないでください。もうあなたの家庭は終わっているよとか、死んでる状態だから諦めようとか、そういうことではないのです。主の御心に戻れば、必ず主は解決してくださると信じて、御言葉に耳を傾けたいとおもいます。


皆さん甘やかされて育ったタイプでしょうか。どちらでしょうか。


私は一度も

「私は親にたくさんの偏愛を受けました」

「買って!って言ったら、買ってもらえたし、やめてって言ったら止めてもらえて、やってって言ったらやってもらえて」

「本当に、親の甘やかしのおかげで痛い目に会わないですくすくと育ちました。ありがとう」

という人に会ったことはありません。今後も会うことはないと思います。


なぜなら、聖書にはそのように書いてないからです。鞭を控えるものはそのものを憎むものだと書いてあります。


たくさんの家庭の問題の中で、子が親に対して、いいようのない怒りを持っているのを、本当にたくさん見てきました。これは、この御言葉にあたると思います。これは親に対して与えられた御言葉であり、けしてリーダーや先生、教会のせいではないということなんです。


"見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。"

詩篇 127篇3節


皆さんの子どもたちは、神様が皆さんに与えたのです。そしてそれは何を意味するのかというと、子育ては皆さんに任せたという意味です。他の人に子育てを任せる選択権を与えられたのではなく、あなた自身にこの子ども任せますよと、主が主の子どもを皆さんに預けたということなんです。


フィリピンに、霊的な識別力ですごく有名な先生がいて、私は非常にその先生が好きでした。本当に毎日、メッセージを聞いていました。youtube に出ているものは全部制覇したと言っても過言ではないぐらい、何度も見直したんです。先生の本にはこのように書かれていました。


「皆さん、絶対に誤解しないでください。私は日曜学校に反対はしていません。でも仮に皆さんの通っている教会に、世界一の日曜学校の先生、世界一のユースリーダー、世界一の主任牧師がいたとしても、あなたの子どもの子育てはあなたがしなければいけないのです」。


子育ての本ではなかったんですけれども、すごく深い真理を示されました。


神様は家庭を通してリバイバルを起こし、その家庭の中で救い、そして慰め、幸せを与えようと願っておられるということです。


多くの先生たちが、教会をスポーツジムやフィットネスクラブに例えます。すごい分かりやすいです。けれども、例えば皆さんが子どもを預けても、全然シックスパック割れないとか、お腹がブヨブヨだとか、この教会このジム、ダメだなということが起こります。ジムの人は当然こういうでしょう。


「あなたは週1回しか通っていないじゃないですか。週1回だけ、1時間にも満たない運動して、残りの6日間は好きなものを好きなだけ好きな時間に食べてたらあたりまえです。それで筋肉質になると思いますか?」


6日間、家の中で鞭を控え、6日間、ずっと憎しみを与えておいて、教会につれてきて、「さあ、子どもを連れてきたのでちゃんと責任を持って愛してください。イエス様の似姿に変えてください。親を尊敬する子どもに変えてください」

ということはできないのです。あなたの子どもは、あなたが責任を持ったかどうか、必ず問われます。


しっかり主の教育をして、鞭を控えず、ちゃんと正すときは正して育てましたといえる状態で、私たちは神の前に進まなければいけないのです。


この価値観からいくと、私と姉は非常に愛されました。親は鞭を控えることがなかったと思います。生まれ変わっていないときには、世の中と比べて、正直ああもう苦しいというときはあったんですけれども、生まれ変わったときに価値観が変わりました。鞭が霊的な愛であったことを、本当に今でも感謝していますし、あの時のあの鞭は痛かった、は一つもないです。これくらい、霊と肉は全く違うということです。


両親は本当に私の誇りで、私が「親は選べない。ありがとうございます」と言ったら、親が「子も選べないんだよ」と答えてくれました。


自分の家庭を見直す大切なポイントが、ここにもあります。どのような心を持っているかです。神様のおかげ、親のおかげ、子どものおかげ、主の恵みによってこうなったと答えるのか、それとも親のせい、子どものせい、主のせいでこうなったと答えるのか。自分の心を吟味し、どのような信仰生活を送ってきたのか、真摯に受け止めなければなりません。


「しっかり鞭打ったんですけど、私の鞭が先に折れてしまいました。子どもの勝ちです」という人がいるかもしれないので補足です。


正しく真理を語ることで逆効果になることが一つあるんです。それは、真理を言うだけの場合です。


自分がやっていないのに、視覚教材として手本を示していないのに、子どもに対してあなた何度言ったら分かるのって言ったとしても、それは混乱と憎しみしか与えられないのです。


人が救われて行いが変わるには、当然時間がかかります。しかし、仮に数年経っても皆さんの家庭に何の変化もなかったら、親自身が変化していない可能性が非常に高いです。何の変化もないから、相手にも何のリアクションもないのです。


親は、自分の罪とその代価を子に説明して、神様の御心で私はこのように変えられたけど、あなたには同じ痛み、苦しみ、傷を負ってほしくないと教える必要があります。言えないのは、自分もまだ勝利していない可能性が非常に高いです。罪の代価ではなく、罪の快楽にフォーカスがあるから、証になれなかった可能性が高いです。


聖霊様に満たされると、私たちは力を受けて聖人になると書いてあります。聖霊様の働きは、私たちを過去の罪から勝利させてくださる、助け主であります。つまり、私たちが罪に勝利していなかったら、何も証にはならないんです。これは、伝道するうえで、また家庭を回復させるうえで、気を付けていかなければいけないポイントです。


若い頃、人にも言えない罪を犯し、まだ心の底ではその当時の罪を恋慕い、あの頃イエス様に出会っていなくて良かったと、本当は思っているとします。すると、その恋慕う心は家族にも影響していきます。


家庭を清めていくには、一番最初に嘆き悲しんで主の御前に出て祈らなければいけません。とりなしの祈りをしていかなければいけないのですが、今日はこのとりなしの祈りを具体的に説明したいとおもいます。


聖書にリツパという女性が出てくるんですけれども、その女性の祈りを通して、今がどのような状況にあっても諦めずに祈るべきであることを学んでいきたいとおもいます。


"王は、アヤの娘リツパがサウルに産んだふたりの子アルモニとメフィボシェテ、それに、サウルの娘メラブがメホラ人バルジライの子アデリエルに産んだ五人の子を取って、

彼らをギブオン人の手に渡した。それで彼らは、この者たちを山の上で主の前に、さらし者にした。これら七人はいっしょに殺された。彼らは、刈り入れ時の初め、大麦の刈り入れの始まったころ、死刑に処せられた。

アヤの娘リツパは、荒布を脱いで、それを岩の上に敷いてすわり、刈り入れの始まりから雨が天から彼らの上に降るときまで、昼には空の鳥が、夜には野の獣が死体に近寄らないようにした。

サウルのそばめアヤの娘リツパのしたことはダビデに知らされた。"

サムエル記 第二 21章8~11節


リツパの2人の子供が亡くなったという話です。普通に考えたら、異常に往生際の悪い女性とも言うことができます。


子どもの死体を岩の上に置き、春から秋の半年間ずっと鳥や獣が近寄らないように、死肉を漁らないようにしていたのです。


狂ってしまった女性のように見えますが、ここには大きな霊的原則があります。まず「死んでいる」とは、神様から離れ霊的に死んでいる人のことを意味します。それに対してリツパが何をするかというと、鳥や獣が触れないようずっと守っていたのです。


鳥というと、ちょっとかわいらしいイメージがありますよね。しかし聖書では、実はあまりよくないイメージです。


創世記でヨセフが牢屋にいるとき、2人の囚人の夢の解き明かしをします。調理官長の夢では、王様に運ぶ食べ物を持っていたけれども鳥が食べてしまい、彼は3日後処刑されてしまいました。もっとわかりやすいのはイエス様の種まきのたとえです。岩地に落ちた御言葉の種を鳥が食べてしまった。鳥は私たちの祝福、御言葉を盗むサタンや悪霊的なものとして書かれています。


リツパは、決して鳥が自分の子どもたちに触れないようにしていたのです。私たちがしなければいけないことは、とりなしです。私たちの子どもたち、霊的な子どもたちに敵が触れないように、犠牲を払って祈っていかなければ、決して家庭にリバイバルは起きないということです。とりなしは死んだ者たちがやるものではなく、生きている私たちが彼らの代わりにしてあげる責任が与えられていて、主はそのような器を今日も探しておられるのです、


リツパがいなければ、神様がリバイバルを注ぎたいと望んでおられても、主の働きはありません。ただ適当にとりなすのではなくて、ここにあるように、昼夜とりなす。そして常に全力で、悪霊が一匹たりとも私たちの家庭に触れないよう、祈っていかなければいけないということです。


とりなしが何のためになるのか。死体じゃないかというかもしれません。


リツパにはちゃんと目的があったと信じています。ただ自分の子どもたちの死を受け入れたくないからこうしたのではなく、ダビデ王に知られるまで、でした。


王なる神様の耳に入るまで、目に止まるまで、私たちは祈り続けなければいけません。勝手に決意して勝手に期間を設けて「分かりました主よ、3週間頑張ります」と契約を結ぶのではなく、へりくだって主の御目がそそがれるまで祈り続けるときに、主が必ずそれに答えてくださるのです。


私たちはイエス・キリストという召使いを得たのではなく、主人を得たのです。イエス様は王様であって、この王様が望まれることだけをしていかなければいけません。


リツパは春の刈り入れの始まりから、雨が天から彼らの上に降る秋までそれを続けたと書いてあります。雨は恵みの雨、聖霊様の注ぎを意味します。自分の力でではなく、神様の恵みが自分の死んだ子どもたちに触れられるまで、徹底的に祈り続けたということです。


確かにこの子どもたちはもう死んでいます。もしかしたら皆さんの子どもたちも、霊的に死んでいるか終わっている状態かもしれません。


「もう死んでいる」と「もう手遅れ」。聖書では、これがイコールではないということに、希望を持ちたいと思います。


"イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」

エスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」"

マルコの福音書 5章35~36節


常識で考えたら確かに死は終わりですけれども、イエス様の御手はそこで終わることはなかったんです。死にさえも打ち勝ったイエス様の御手が、私たちの死んだ魂に置かれるとき、その魂は生き返るのです。


主が触れたときに娘は起き上がったと書いてあります。これは肉的な死者蘇生を意味しているのではありません。霊的な法則として 捉えるならば、私たちが今見ている状況がどれだけ絶望的な状態だとしても、私たちがリツパとなって、私たちの家庭に悪いものが触れないよう守り続けるならば、すべての家庭が回復へと導かれるという神様の約束です。主ご自身がそれを願っておられるということを明確に悟って、主の器になりたいと思います。


ハッキリ言いますけれども、皆さんの子どもたちと皆さん自身を含めた家庭が、完全に破壊される前に、謙遜になって御言葉に立ち返る方が理想的でした。


たとえば、キリストの花嫁の条件は、最低体重50キロだとします。例えばですよ。霊的な意味ですよ。自分の体重と比べて、私もう信仰生活を今日で辞めますと言わないでください。


3キロ5キロ増えちゃったな、というその時に、ちょっとお腹が出てきたのを直した方がいいんです。100キロ超えて、そこから50キロ以上を落とすよりはるかに楽です。


世の中に行けば、私たちの周りを鳥や獣がうろついていますけれども、うろついているだけなんです。猛禽類や獣は死肉を漁るので、影響されている状態、つまり飛んでいたり近づいてきたりしても、実際に食いついては来ません。その時に追い払った方が今霊的に死んだ状態で何十匹何百匹やってくるのを追い払うより楽ではありました。


大丈夫ですよ、いずれ必ず戻ってきますよという根拠のない言葉は言いません。そのかわり、御言葉にあって根拠のある解決を言いたいと思います。


確かに蒔いたものは刈り取らないといけないんですけれども、涙を流して砕かれた心で刈り取るなら、必ずそこには喜びのみのりもあると信じます。


このリツパの祈り、5か月6か月朝も昼も夜も祈るということは、私の方法ではなく神様の方法に頼ることです。罪を犯す時間も楽しむ時間も完全に祈りに変えますという、自分の罪をおろす告白でもあります。お互いにリツパになり、とりなしあっていきたいと思います。


"まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」"

マタイの福音書 18章19~20節


主がともにいるので必ずその祈りは聞かれる。クリスチャンが一番求めていることだと思います。祈りどおりに主がなさってくださるという素晴らしい約束。その条件は地上で心をひとつにすることです。お互いリツパのようなとりなし手になるとき、主が迅速に私たちとその家庭に触れてくださって、主ご自身がすべての悪霊を追い出して、その死んだ魂をよみがえらせてくださると信じます。


第二列王記の4章に、子どもを亡くしたお母さんが登場します。


"彼女は夫に呼びかけて言った。「どうぞ、若者のひとりと、雌ろば一頭を私によこしてください。私は急いで、神の人のところに行って、すぐ戻って来ますから。」

すると彼は、「どうして、きょう、あの人のところに行くのか。新月祭でもなく、安息日でもないのに」と言ったが、彼女は、「それでも、かまいません」と答えた。

彼女は雌ろばに鞍を置き、若者に命じた。「手綱を引いて、進んで行きなさい。私が命じなければ、手綱をゆるめてはいけません。」"

列王記 第二 4章22~24節


お子さんが亡くなった後の話です。彼女は急いで神様の力を求めに行きました。私たちも、問題の解決策は主の御手にあるということを信じてその道を選ばなければいけません。そしてその道を邪魔する人がいました。この場合は夫でした。


普通男だったら「いや、体力のある私が代わりに行く」と言いませんか。しかし、夫は早く行ってきなさいと言うんです。それなのに最後を見ると「どうして今日あの人のところに行くのか」と言っています。


でも奥さんは、非常に良いことをしました。怒りに任せて、夫を殴ったり蹴ったりぶん投げたりしなかったんですね。肉的な反応に対して肉的に反応するのではなく、自分はそれでも霊的に反応し、それでも構いませんと答えたんです。彼女はエリシャに追いつきます。


私たちの周りに、肉的に反応して私たちに落胆や不信仰を与える状況がどれだけあっても、それでも私は神様の御手を選びますというとき、私たちは必ず主の御手に届くことができるのです。


夫の気持ちも分かります。だって亡くなってしまったじゃないか。もう何ができるんだと思うんです。


このように、常識が攻撃してくるときもあります。どうして今日あの人のところに行くのか。何の意味があるのか。それでも「手綱を緩めてはいけません」と全身で主のみを求めていくんです。


"こうして、彼女は出かけ、カルメル山の神の人のところへ行った。神の人は、遠くから彼女を見つけると、若い者ゲハジに言った。「ご覧。あのシュネムの女があそこに来ている。

さあ、走って行き、彼女を迎え、『あなたは無事ですか。あなたのご主人は無事ですか。お子さんは無事ですか』と言いなさい。」それで彼女は答えた。「無事です。」

それから、彼女は山の上の神の人のところに来て、彼の足にすがりついた。ゲハジが彼女を追い払おうと近寄ると、神の人は言った。「そのままにしておきなさい。彼女の心に悩みがあるのだから。主はそれを私に隠され、まだ、私に知らせておられないのだ。」"

列王記 第二 4章25~27節


ここで不思議な答えが出てきます。お子さんは無事ですか。亡くなったから来たのにも関わらず、無事ですと答えました。


これは平然を装ったり、つよがったり、仮面をかぶって良い健康的なクリスチャン家庭にみられたいというような気持ちではありません。


この時の彼女の「無事です」は、


「確かに今、目で見て死んだ状態ではあるかもしれないけれど、私は目に見えるものに囚われて生きるのではなく、信仰によって選んで生きるものです。」


「今この子は死んでいるかもしれません。でも、神のみ手が触れるとき、主の力が触れられるときにこの子は無事になるということを信じて無事になりますと言います。」


という信仰告白なのです。私たちもこの信仰を持っていきたいとおもいます。


仮にこの世界にリツパがあなた一人しかい なく、他はすべて絶滅したとしても、あなたはリツパになって祈り続けなければいけないということです。悪いものが1匹たりとも家族に近寄らないように、触れないように、祈り続けていかなければいけません。


それを続けていると、主ご自身が目を注いで、恵みの雨を注いで、主ご自身の力によってその家庭が回復することを信じていきたいと思います。


仮にもう死んでいたとしても、私たちがそれを認めて主の前にへりくだるなら、主は必ず答えてくださって、必ず生き返らせてくださる。

 

信仰を持って祈りましょう。家族全員一人残らず、天の御国で永遠に喜ぶ私たちになるよう、主の御名で祝福します。