きまたまジャーナル

オーロラの海に浮かぶ氷山と、アーモンドの花冠

個人的メッセージメモ 19

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「自分の国づくり」を志向する罪

葦のかご教会 坂本兵部師

2023年5月30日(火)

https://youtu.be/qQJHS_6oT9c


"さて、再び主の怒りがイスラエルに対して燃え上がり、ダビデをそそのかして、彼らに向かわせた。「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ」と。

王はともにいた軍の長ヨアブに言った。「さあ、ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルの全部族の間を行き巡り、民を登録し、私に民の数を知らせよ。」

ヨアブは王に言った。「あなたの神、主が、この民を百倍にも増やしてくださいますように。わが主、王の目が、親しくこれをご覧になりますように。ところで、わが主、王は、なぜこのようなことを望まれるのですか。」

しかし、ヨアブと軍の高官たちへの王のことばは激しかった。ヨアブと軍の高官たちは、イスラエルの民を登録するために王の前から出て行った。

彼らはヨルダン川を渡って、ガドの谷の真ん中にある町、ヤゼルに向かって右側にあるアロエルに宿営し、

ギルアデとタフティム・ホデシの地に行き、さらにダン・ヤアンに行き、シドンに回った。

そしてツロの要塞に行き、ヒビ人やカナン人のすべての町に行き、ユダのネゲブへ出て行って、ベエル・シェバに至った。

彼らは全土を行き巡り、九か月と二十日の後にエルサレムに帰って来た。

ヨアブは兵の登録人数を王に報告した。イスラエルには剣を使う兵士が八十万人おり、ユダの兵士は五十万人であった。

ダビデは、民を数えた後で、良心のとがめを感じた。ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ、今、このしもべの咎を取り去ってください。私は本当に愚かなことをしました。」

ダビデが起きると、主のことばがダビデの先見者である預言者ガドにあった。

「行ってダビデに告げよ。『主はこう言われる。わたしはあなたに三つのことを負わせる。そのうちの一つを選べ。わたしはあなたに対してそれを行う。』」

ガドはダビデのもとに行き、彼に告げた。「七年間の飢饉が、あなたの国に来るのがよいか。三か月間、あなたが敵の前を逃げ、敵があなたを追うのがよいか。三日間、あなたの国に疫病があるのがよいか。今、よく考えて、私を遣わされた方に何と答えたらよいかを決めなさい。」

ダビデはガドに言った。「それは私には非常に辛いことです。主の手に陥らせてください。主のあわれみは深いからです。私が人の手には陥らないようにしてください。」"

サムエル記 第二 24章1~14節


ダビデは決して完全な人ではありませんでした。むしろ、かなり多くの問題を持っていた人、罪もあった人だったんですね。それにも関わらず、神様はダビデをとらえておられ、選んでおられ、諦めないんですね。神様はダビデを愛するがゆえに懲らしめ続け、ダビデも懲らしめの中で神様の愛を受け取り続けました。

 

"たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。"

詩篇 23篇4節


詩篇23篇にあるように、私を打ってくださる神の鞭こそが私の癒し、慰めですという告白で神様の取り扱いを受け続けるのです。これがダビデの人生でした。

 

今日のこの24章の出来事は、時系列的にダビデの人生の本当に末期にあったものなのか、それとも王国の初期の頃にあった出来事をあえて後ろの方に書いたか、これはちょっと学者間の議論があるようです。

しかし、サムエル記の最後にこの出来事が書いてあるのには意味があります。

 

ダビデは初期の頃は本当に謙遜でしたが、ちょっとうまくいくと心が緩んで罪を犯すようになります。これはダビデだけなく、私たち人間みんなの傾向です。しかしダビデの内面から出てくる罪の性質の問題を、そのようなダビデを、神様は最後まで放置なさいませんでしたというのが24章の内容なんです。

 

具体的に何があったか。人口調査です。

 

"さて、再び主の怒りがイスラエルに対して燃え上がり、ダビデをそそのかして、彼らに向かわせた。「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ」と。"

サムエル記 第二 24章1節

 

一見、神様がそそのかしたかのような語り方ですが、違います。すでにダビデ自身の心に傲慢な傾きがあったのです。それで神様が、「そっちを選ぶならもうそうしなさい」という風に、それをさせたということでしょう。ダビデは、「イスラエルとユダの人口を数えよ」と軍司令官に命じました。


"王はともにいた軍の長ヨアブに言った。「さあ、ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルの全部族の間を行き巡り、民を登録し、私に民の数を知らせよ。」"

サムエル記 第二 24章2節


人口調査がなぜ罪になるのか。民数記を見れば、モーセが神様の御心に従ってイスラエルの民の数を調べたという話がありますから、人口を調べることがなぜ罪なのか、にわかには理解できないかもしれません。


この24章で言われている内容はこういうことです。神の恵みによって、私と私の国はここまできたという感謝に満ち溢れた状態ではなくて、「いろいろ大変なことがあったけれども、今本当に回復して落ち着いたな」ということで、「じゃあここから残りの人生でどういうことができるかな」という風に、ダビデの頭と心が動き始めたということです。


恵みによって与えられている神の国に満足し、感謝して心いっぱいに賛美している状態ではないのです。今どのぐらいのマンパワーがあるかなと。それをとりあえず把握して、残りの人生でどれぐらいのことができるかちょっと考えようという心の傾向。これは罪なんですね。


私たちの教会でも、毎週礼拝の出席者は正確に担当者の方が数えて記録してくださっています。それは一人一人を大事にするという意味でやってるわけです。しかし、牧師にある誘惑が何かというと、やっぱり数です。できるならば増やしていきたいという誘惑ってあるんですよ。


ヨアブは言いました。

ダビデ王よ、あなたは貧しい時には結構謙遜だけれども、どうして今そんな人口調査なさいますか」と。

 

ヨアブですら、この時点で人口調査することが神のみ心にかなわないと感じ、王をたしなめようとしました。けれども、ダビデは「うるさい、やれと言ったらやれ」という風に強引に人口調査を進めたのです。


これは本当に、ダビデだけでなく私自身の中にもある罪の性質です。もし私が目覚めていなければ、この方向で私自身が進みかねない罪の方向性です。

 

神の国ではなく自分の国づくり。自分の勢力拡張を志向してしまう方向性。これは、牧師だけの問題ではないのではないでしょうか。私たち共通の罪の性質じゃないですか。

 

置かれている状況で、真理の御霊様によって与えられている神の国を感謝し喜ぶ代わりに、この状況なんとかならないのか、このこともっと打開できないのか、もうちょっと環境を変えられないのか、あの人もうちょっと変わってくれないのかと思う。何とかして自分の思いを実現していきたい、もっと自分のためにパワーがあったらなという風に、イライラしながら、もどかしく思いながら時を過ごしてしまう性質。

罪じゃないですか?


今日のこの御言葉が語るのは、神様がそういうダビデを放っておかなかったということです。9ヶ月と20日もかけて、これだけのエネルギーをかけて人口調査をしたときに、ようやくダビデの心に責めが来たのです。


"ダビデは、民を数えた後で、良心のとがめを感じた。ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ、今、このしもべの咎を取り去ってください。私は本当に愚かなことをしました。」"

サムエル記 第二 24章10節


ダビデは主に対して悔い改めの祈りを始めたと10節に書いてあります。「私は大変重い罪を犯しました。大変愚かなことをしました」。聖霊によって罪が諭されたということです。そして11節。ダビデが真夜中に悔い改めの祈りをして朝起きると、預言者が神の言葉を伝えにきます。神は語られました。


"「行ってダビデに告げよ。『主はこう言われる。わたしはあなたに三つのことを負わせる。そのうちの一つを選べ。わたしはあなたに対してそれを行う。』」"

サムエル記 第二 24章12節


つまり懲らしめを受けなさい、あなたは大きな罪を犯したからということでしょう。ダビデに3つの選択肢が与えられました。


"ガドはダビデのもとに行き、彼に告げた。「七年間の飢饉が、あなたの国に来るのがよいか。三か月間、あなたが敵の前を逃げ、敵があなたを追うのがよいか。三日間、あなたの国に疫病があるのがよいか。今、よく考えて、私を遣わされた方に何と答えたらよいかを決めなさい。」"

サムエル記 第二 24章13節


これは要するに、あれです。子供が罪を犯した時に、父親が子供を戒めます。私も自分の息子がちっちゃい頃やりました。

 

息子に向かってコンコンと諭し、そして息子が自分の罪を悟って涙で悔い改める兆しが見えた時にこんなことを言ったことがあります。「どうする? お父さんもうお前のことほっとく、あっち行ってテレビでも見とけという方を選ぶか、それともお父さんにここで一発お尻叩かれてから行くか?」

ちっちゃい息子がポロポロと泣きながら、お父さんに一発叩かれてから行きますなんて答えました。

 

そういう時は叩くんですけど、その後本当に彼が悔い改めたことを褒めて祝福して抱きしめて祈って。そんなことがありました。父と息子の間に愛の関係があれば、お父さんが慈しみ深いお父さんだから、お父さんの懲らしめもしっかり受けて、また新しく歩み始める。そういうことを子供自ら選んだりもします。

 

ダビデと神様の関係がそうだったということでしょう。14節を見てください。

 

"ダビデはガドに言った。「それは私には非常に辛いことです。主の手に陥らせてください。主のあわれみは深いからです。私が人の手には陥らないようにしてください。」"

サムエル記 第二 24章14節


ダビデという人は、我々と同じように罪の性質が最後までなくならない人でした。けれども罪が示されたときに主のもとに立ち返ってくる人だったんです。そして神様の方もそういうダビデを最後まで手放さなかったのです。これが、ダビデが今に至るまで御心にかなった人と言われ続ける理由なんですね。


私にもいろんな失敗があるんです。けれども本当の問題は、失敗の中に埋められ潜んでいる私自身の罪の性質です。イエス様の十字架の恵みを無にする罪の性質。十字架を通して、聖霊を通して与える神の国を喜ぶ代わりに、私自身の肉によって私自身の国を作ってやろうという肉の性質。これありますね、間違いなく。これを本当に神様がいろんな出来事を通して諭し、十字架のもとにへりくだるよう導いてくださるのです。ですから、そのことを謙遜に聖霊によって悟り、そして主からの懲らしめを懲らしめとして受け取っていく。そのような具体的な適用を私もしたいと願います。


愛する兄弟姉妹お一人一人の歩みにも、神様が愛であるがゆえの、いろんな神様からの鍛錬というものがあるでしょう。けれどもこれは、主から愛されているがゆえの出来事です。私たちは諦めず、そして私たちに人間の国ではない神の国の義と平和に満ちた実を結ばせてくださる一つ一つの出来事を、信仰を持って受け止め導かれていきましょう。