きまたまジャーナル

オーロラの海に浮かぶ氷山と、アーモンドの花冠

個人的メッセージメモ 13

一方通行or双方通行  2015.10.23.

エステル・リー師

https://youtu.be/DFkL08dlHCM

 

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キリスト教は、「愛の関係の宗教」といえる。神と人、人と人の「愛の関係」をとおして言葉が受け取られ、働いていく。だから、関係性が大事。健康な関係には、お互い責任が伴う。


昔はリーダーの資質として、IQを重視した。勉強ができれば何でもできると誤解した時代。しかし、ただIQが高いだけだと、関係づくりはうまくないことがある。その後、EQがクローズアップされた。しかし、感受性豊かな人はジェットコースターのようにアップダウンも激しく、今度は周りがついていけないという事態が起こった。結局は、SQ(共感能力)に卓越した人がリーダーとして求められるようになった。


共感能力は、人との関係を円滑にする。共感とは、相手の高さに合わせることを意味する。円滑な人間関係は、まず誰かが犠牲を払うところからスタートする。


他者に仕える人は成熟していなければならない。歳をとったら成熟するとは限らない。成熟は深さを意味する。主に焦点を合わせた深さを持つ人。教会にはこのような人が多くいなければならない。


自己中心的な人は、他人に関心を持てない。自分が愛をたくさん受けたときだけ、幸せが満ち溢れる。そういう人は、人間関係が自然に難しくなる。神は、あなたがまず愛しなさいと言う。もしあなたが相手を愛し育んでいくなら、すべての傷も洗い流されていく。その歩みには苦しみが伴うが、御言葉をつかんで最後まで耐え忍ぶとき、勝利を得る。


「御言葉の中で」共感しなければならない。神は霊なので、霊で一致しなければならない。ここに戦いがある。教会も御言葉の中で一つになること。人は悪事においても共感し一致できる。アナニヤとサッピラがそうだ。

 

"この日、ヘロデとピラトは仲よくなった。それまでは互いに敵対していたのである。"

ルカの福音書 23章12節

 

共感は御言葉と真理の中で。そうでなければ分裂が起きる。


エス様も私たちに共感してくださる。イエス様も間違いを見てなげき悲しまれる。泣かれる。きよい憤りをお感じになる。


エス様は、単なる宗教的なきよさを持つ方ではなかった。涙も流すし、憤りも感じる。そのイエス様が聖霊様として、今、私のうちにおられる。私たちは真理の中で自由を得なければならない。


もどかしい、話が通じない。霊と肉はこんなにも違う。そういう経験の中で、誰か一人がまず死ななければならない。共感できない人のコミュニケーションは、一方通行。あくまで自分スタイルを貫く。

 

SQ(御言葉と真理の中で共感する能力)を開発しよう。実を結ぶために。キリストのきよい花嫁になるために。罪と戦って血を流すまで、自分を開発しなければならない。


他人と過去は変えられないが、未来と自分は変えられる。聖霊様の中でそれが可能になる。品性が変わっていき、次第に自分のものになって行く。少なくとも21回訓練を繰り返すと自分のものになると聞く。だから決断にかかっている。


人との関係の中でうまく進めないと、「心に傷を受けた」ということになる。しかし傷のない人はいない。また、すべての傷は主の中で自由に変わる。

 

"もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。"

コリント人への手紙 第二 1章6節

 

私が先に受けた傷と苦難が、他人を建て上げる力になる。そして人間関係の中で、他者を導けるようになる。苦しみの中にある人は、勝利して、主に他人を導かなければならない。

 

"すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。

そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、"

ヘブル人への手紙 12章14~15節

 

神様を信じたからといって、人はすぐ変化しない。牧会当初、私は大きなショックを受けた。信仰ゆえに、ではなく、品性の問題ゆえに傷を受ける人が多いのである。


罪人は教会に集まる。傷ついた人へのケアの仕方にも、導き手の品性が出てくる。関係の中に品性が現われてしまう。


むしろ、教会外にちゃんとした人が多い。教育をしっかり受けた人は品性がしっかりしている。皮肉なことに、あまりにも性格や品性が整っていると苦しみがないので、主を求めることもない。


人が本当に主に出会ったのなら、悪い性格は変えられていかねばならない。すべてのクリスチャンにとって、大事なのは品性。賜物ではなく品性を見なければならないし、それ自体が実である。また、人々は品性のあるリーダーについていくもの。だから品性を磨くことに勝負をかける必要がある。


品性は、共感能力に通じる。そのような人をリーダーに立てる。私がもっと変わって、主に似ていかねばならない。


真理の中で自由を得ると、人は変わる。心に火が燃えるので、否定的な言葉が出なくなる。


主は建設的で積極的で肯定的な方。人が聖霊様に出会うと、否定的なものがなくなる。だからイエス様の中に入ろう。なぜあなたの力でやろうとするのか。もっと祈りなさい。死ぬまで祈ろう。イエス様も、汗のしずくが血のように滴り落ちるほど祈った。恵みはたやすく受けられないもの。イエス様と共にいかねばならない。


また、神様は私たちのとりなしの祈りを本当によろこばれる。

 

"どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。"

ネヘミヤ記 1章6節

 

ネヘミヤは、自分の犯していない罪についても祈った。自分が身代わりとして罪を告白している。この祈りは模範である。このような心で祈りなさい。悔い改めのないリバイバルはない。この心を持って祈らなければならない。

 

"わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。"

エゼキエル書 22章30節

 

この国のための祈り手を、神が探しておられる。主よ待ってください。私が悔い改めるので待ってくださいと言う人。リバイバルの前には、とりなし手が起こらなければならない。力強いとりなし手。「すべて御心の通りになりますように」・・・これはとりなしではない。一致する祈りの勇士。主は、全地を見渡して探しておられる。

 

"けれども、あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。"

歴代誌 第二 6章19節

 

歴史は神の御心どおりに成し遂げられていく。祈ることは損することだと考える人がいるが、神に用いられる道は祝福の道。もし私たちが自分を準備して用いられようとしなかったら、神は私たちではなく他の人に任せようと、とりなしを担う人を探される。これこそ損。

 

神の御心を悟ることが一番重要。御心に関係なく一生懸命にやるなら、苦しみになる。しかし、主の心を感じると涙が出る。祈りの中で、聖霊様が深い御心も悟らせてくださる、それが祈りの力。

 

"この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。"

ローマ人への手紙 12章2節

 

日本のリバイバルは、私たち一人一人から始まる。私が変えられると、私から変化が流れていく。行動よりも心の態度を調べよう。神の関心は心にある。私がどういう心を持っているか。イエス様も、多くの働きをしたマルタではなく、御言葉に耳を傾けたマリヤを褒めた。


御心を完全に悟ると、人は止められてもやりたくなるもの。それは神の栄光と徳になる。


人の考えに基づく行動、人を喜ばせるための行動、それは神に喜ばれない。祈りながら、主の心と主の愛を求めよう。この悪い性格のままでは、私は人を愛せない。主の視点で魂を見ることができるよう、祈らねばならない。