きまたまジャーナル

オーロラの海に浮かぶ氷山と、アーモンドの花冠

個人的メッセージメモ 20

ヨハネ福音書18章37-40節

2023.6.25.

新宿シャローム教会 真島誠師

 

f:id:kimatamajurnal:20230630190801j:image

 

天のお父様ありがとうございます。

主の家に住まう者、その大庭に住まう者。

私たちは何という特権を得ているんでしょうか。私たちは何という幸いを味わっているんでしょうか。ますますあなたが与えようとしている幸いの味わいを、深く強く味わっていくことができますように。主が愛してくださっているように愛し合う神の家、栄光を表す神の教会が、この地上に立ち上がっていきますように。これから御言葉が開かれますが、私たちは心をまず開きます。耳を開いてください。心を開いてください。神を知るための知恵と啓示の御霊を注いでくださいますように。感謝して、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。


感謝します。皆さん、主ご自身に飢え渇いていますか? 「主の家に住まいましょう」という詩篇23 篇には「主は私の羊飼い、私は乏しいことがありません」とあります。


エス様が私たちの羊飼いですか? 御声を聞くために私たちはいつも主の前に出ているはずです。主が羊飼いなら、主が私たちを緑の牧場に伏させ、憩いの水のほとりに伴われます。


でももし私たちが飢え渇いていなかったら、連れて行かれても食べません。連れて行かれても飲みません。


イギリスにこういうことわざがあります。「人は馬を飼い葉桶のところに連れて行くことはできるが、食べさせることはできない」。


飢え乾いてなかったら「食べる」という行為は成立しないです。ピーマン嫌いな子にピーマン食べさせるのって難しいですよ。めちゃくちゃ難しいです。「ほら大丈夫だよ、美味しいよ、美味しいよ」「大丈夫大丈夫ちょっと口開けてごらん」って言って、口に入れてあげることはできるんです。けれども飲み込まない。自分が意志を持って、飢え渇いて飲みこまなければ、「食べる」は成立しないんです。


御言葉に飢え渇いていますか? 主ご自身に飢え渇いていますか? 心の貧しい者、飢え渇いたものは幸いです。神の国はその人たちのものだからです。私たちは神の国をますます求めていきましょう。第一に求めるべきものは何ですか? お金ですか。名誉ですか。体力ですか。みんなそんなに悪いものじゃないです。与えられるなら受け取ってください。でも、第一に求めるべきものは神の国です。


優先順位を間違えたら、本当に得るべきものを得るのが難しくなります。優先順位を間違えると、私たちは本当にやらねばならないことを無視してしまうんです。何はともあれ、神の国とその義とを第一に求めましょう。そうしたら、本当に必要なものを備えることができます。


でも、今日は詩篇23篇を見るのでも、マタイ6章30節を見るのでもありません。今日はヨハネ福音書18章37節から40節を見たいと思うんです。これが本当に今開かれるべき御言葉だと感じたので、ここからシェアできればと思います。


"そこで、ピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」

ピラトはイエスに言った。「真理とは何なのか。」こう言ってから、再びユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私はあの人に何の罪も認めない。過越の祭りでは、だれか一人をおまえたちのために釈放する慣わしがある。おまえたちは、ユダヤ人の王を釈放することを望むか。」

すると、彼らは再び大声をあげて、「その人ではなく、バラバを」と言った。バラバは強盗であった。"

ヨハネ福音書 18章37~40節


マタイ18章というのは、十字架にかかる前のシーンですね。もう本当に終盤のところです。十字架につけろ、十字架につけろと人々がイエス様を訴え、引渡してしまう、私たちの心を真理に向けさせるシーンです。「真理に属する者は私の声に聞き従います」と書いてあり、その後の節ではピラトが「真理とは何ですか」と質問するのです。


なので、ここは私たちの意識を真理にフォーカスさせる働きをする箇所です。真理に属する者は主に聞き従う者と書いてあります。主に聞き従って歩む。喜びをもって信頼をもって主に聞き従って歩む。そのような私たちであり続けましょう。


主は私たちを恨んでいるんですか、嫌いなんですか。私たちを苦しめたいんですか。主はそのような方ではありません。私たちに幸せになってほしいと思う、私たちの父です。私たちの幸いを知っている神です。なのでこの方が私たちに語りお命じになるのは、私たちを幸せにするためです。


従うこと、時にはしんどいなって思うかもしれないですね。ときに私の心は、「もうそれ本当に拒絶したい」って思ってしまいます。でも、その先にあるものの素晴らしさを信じましょう。


私たちだって、この地上でお父さんお母さんから散々、それは耳が痛いな耳タコだなっていうようなことを言われてきたんじゃないですか? 勉強しなさい、勉強しなさい、片付けなさい、言われて来なかったですか? 


親が子に命じるいろんな都合がこの地上ではあるけれども、天におられる父にはなくて、ただ私たちに良かれと、私たちをきよめるためにそれをやっていると、聖書は言っています。なので、神に聞き従うことは本当に素晴らしいことです。


皆さんに質問したいと思います。救われたらみんな真理に立っていますか? 救われたらみんな真理に歩んでいますか? どう思いますか。首を横に振った人がいますね。その通り。救われたら全員真理に歩むとは限らないですよね。


"兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私は大いに喜んでいます。実際、あなたは真理のうちに歩んでいます。私にとって、自分の子どもたちが真理のうちに歩んでいることを聞くこと以上の大きな喜びはありません。"

ヨハネの手紙 第三 1章3~4節


歩めていたら、ヨハネはこう言わないです。どうか真理に立つ私たちでありますように。それが、神のご計画、神が与えようとしている幸せを受け取っていくための道です。ガラテヤ5章の7節もこう証言しています。


"あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたの邪魔をして、真理に従わないようにさせたのですか。"

ガラテヤ人への手紙 5章7節


ガラテヤ教会の人たちはクリスチャンです。栄光の初代教会のメンバーに対して、パウロは「誰が真理に従わなくさせたのか」と言っています。私たちが救われているから、自動的に真理に歩むとは限らないわけです。


真理に従っているかいないか。ポイントは、真理であるイエスキリストに聞き従っているかどうかです。


私たちはイエス様に聞き従う民であると告白します。素晴らしいことです。主は私たちに語られる方なんですね。主の語りかけを求めて、主の前に出る民であり続けましょう。それは、私たちにどうしても必要な「一つのこと」です。ベタニアのマリアは主の御前で御言葉に聞き入っていました。イエス様は、どうしても必要なことは多くない、いやただ一つだ、そういうふうに言ったんです。


聞き従う。真理に歩む。そのためにどうしても必要なことは、真理であるイエスキリストの声を聞くことです。そのような私たちでありますように。主は私たちの羊飼い。羊飼いの声に聞き従っていく私たちでありますように。

 

"わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。"
ヨハネ福音書 10章27節


「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます」と書いてあります。だから、私たちは、本当はいい耳を持ってるんですよ。救われてすぐにイエス様の声を聞いたというと、「本当かな」「怪しいな」「肉の声じゃないの」とかちょっと疑ったりすることもあります。でも私たち、もともとのデザインではいい耳を持っている! 羊としてデザインされているんです。だから主の声を聞く私たちでありますように。


真理であるイエスキリストは、私たちに語ってくれる。けれども同時に、サタンも私たちの魂に語ります。「こうしたら楽しいんだよ」「こうしたら面白いよ」「こうしたらスッキリするよ」。いろんなことを魂に語りかけてきます。


アニメでよくあるじゃないですか。こっちには白い天使、こっちには黒い悪魔。そういう感じの状況、ないですか。これ案外、私たちの魂の中で起こることじゃないですか。でも、サタンに耳を傾けていく私たちではありませんように。主に耳を傾ける私たちでありますように。


サタンに耳を傾けて失敗した代表選手、誰ですか。そう、エバですよ。エバはサタンの声に、蛇の声に耳を傾けました。それゆえに誘惑され、失敗していきました。だから逆に、私たちが主の御声に耳を傾けるなら、成功が待っています。この世的な成功ではないと思いますけれども、もっと素晴らしいですよ。永遠の世界における成功です。神が私たちに与えようとしている素晴らしいものを味わうでしょう。


「どうしても必要なただ一つのこと」から、それが始まるのです。主の御声に聞き従い真理に歩みましょう。そのような私たちでありますように。


この道の者となり、真理に従って歩むのであれば、私たちはその先にある永遠の命に預かっていきます。すでに私たち、部分的に預かっていますよね。私たちの中に、永遠の命がありますか? あります! そして私たちはそれを豊かに持つ者になると、ヨハネの10章は言ってるんです。アーメンですか? 


"盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。"

ヨハネ福音書 10章10節


もっといのちにあふれた者、もっとイエスキリストのご性質に預かった者、イエスキリストを知っている者。そのような、いのちにあふれた者に私たちはなっていくんです。


今日は3つのポイントを見てみたいと思います。

 

f:id:kimatamajurnal:20230630191001j:image


1番目のポイント。

それは、私たちの口の告白によって、主の側に立っているか、サタンの側に立っているかが決まるということです。口は、とても重要です。


"また船を見なさい。あのように大きくて、強風を受けていても、ごく小さい舵によって、舵を取る人の思いどおりのところへ導かれます。同じように、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って自慢します。見なさい。あのように小さな火が、あのように大きな森を燃やします。"

ヤコブの手紙 3章4~5節


ヤコブ書を見ると、舌は舵のような役割をし、大きな船もこれ一つで引き回せると言ってますね。私たちの口は、私たちの進むべき方向を決定づけていくのです。


"死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。"

箴言 18章21節


口の言葉は本当に重要です。ヨハネの18章で、ピラトはキリストを釈放しようかと提案しました。けれども「そうじゃない、バラバを釈放しろ!」と民衆が言った。それで、イエスキリストは十字架に向かうよう決定づけられていきました。


このちょっと前、ユダヤ人たちは何て言ってたんですか。ユダヤ人たちはいつもイエスキリストに対して反抗的だったんですか。反対してたんですか。


もちろんそういう人たちもいました。意見は2つに分かれていましたね。イエスキリストをメシアとして迎え入れているグループと、いやあれは怪しいって言うグループ。その中で、ユダヤ人の多くは、エルサレムにやってくるイエスキリストを迎えて「ホサナ。主の御名によって来られる方に祝福あれ」って言ってたじゃないですか。


同じ口で彼らはその後に「この人ではない、バラバだ。バラバを釈放しろ。こいつは十字架につけろ」って言ったんです。あの彼らが、「主の御名によって来られる方に祝福あれ」というのは、ものすごい意義があると思うんです。なぜなら、イエスキリストが世の終わりにこの地上にやってくる時には、その声に応答してくるんですよ。ユダヤ人たちが「ホサナ!」と叫ぶ時に、イエスキリストはこの地上にやってくるんです。だからもう模範的な神の民の告白、神の民の礼拝です。


しかしこの時は彼らは祭司長たちの声に聞き従い、この世と調子を合わせて、この世の流れに流されて「この人を殺せ、バラバを釈放しろ」と言ったんです。そしてこの声が勝ったと、聖書の他の箇所には書いてあります。


この声が働いて、イエスキリストを十字架につけていきました。つまりそこで働いていた力は、サタンの力だった。彼らの告白によってサタンの願いを叶える、ということが起こっていたわけですね。


彼らが「バラバを釈放せよ」と言ってることは、すなわちサタンの側に立つことです。「ホサナ」と言ってることは、主の側に立つことです。私たちの口の告白によって、このどちらに立つかが明確に切り分けられていきます。


私たちは口の告白を大切にしていきましょう。神も言葉というものをとても重要視しています。私たちが天に上った時、ジャッジされるのは、私たちの語ったあらゆるむだな言葉についてです。


"わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。"

マタイの福音書 12章36節


エスキリストは、神の言葉なる方です。言葉というものを、とても神は重要視しています。私たちも神の言葉によって作られ、この地上も神の言葉によって作られました。だから、言葉というものを私たちは大切にしましょう。


私たちは神に属する者ですよね。私たちは神の子どもですよね。私たちは御国を押し広げていくキリストの兵士ですよね。であるなら、私たちはキリストの側に、神の側に立ち続けるべきです。口の告白によって、私たちはそのような者になっていきましょう。口の言葉を大切に扱うことは、私たちの成熟に結びついています。そうですよね。


"私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。"

ヤコブの手紙 3章2節


口を完全に取り扱うことができるなら、完全に成熟した者だと言っています。言葉を大切にすることは、私たちの霊的成熟に直結するんです。


もちろん、バラバを釈放しろと言ったこともすべて、神の御手の中にあります。全部が神様の計画の一部です。でも私たちは、神に反対する側で、サタンの計画を推し進めてはなりません。神の側に立ち、神のご計画の素晴らしさを味わう者になりましょう。それは素晴らしいことです。


彼らが「バラバを」と言ったこの発言は、神の計画の中で用いられていき、全部が神様の御手の中にあって、バラバは釈放されたわけです。


バラバという言葉はどういう意味か。ヘブル語でバラバとは、バルアバっていう単語から合成した言葉です。それが彼の名前なんですね。バルアバは、父の子という意味です。バルとは息子、アバは父です。昔アメリカにアバっていうグループが出ましたね。これが分かる人は相当上の年代ですね。


それはさておき、バラバは「父の子」。殺人まで犯した父の子です。でもイエスキリストが罪に定められ、このバラバが釈放されます。このことには深い意味があると思います。


バラバは私たちでもあります。私たちは本来は罪に定められるべきものだったんです。しかしイエスキリストが有罪になることによって、私たちが釈放されたんです。アーメンですか。私たちは天の父の子になることができるけれど、それはイエスキリストが十字架で罪に定められることによってなのです。


全部が神の御手の中にあります。全部神様にとって想定内です。でも私たちは神の側に立つか、サタンの側に立つか、チョイスを任されています。だから神の側に立つ者になりましょう。口の告白をもって神の側に立つんです。それはとても重要なことです。


賛成なのか反対なのか。紅組なのか白組なのか。こっちなのかあっちなのか。どこによってそれがはっきりするのかと言ったら、口だと思うんです。行動だけでははっきりしないってことあるじゃないですか。


高校生の頃、そういうのしょっちゅう体験しなかったですか。なんか好きな女の子とかいて、いっぱい話するけれどもはっきり言わないから、好きなのか嫌いなのかよくわからない。伝わらない。そういう友人たくさん見なかったですか。なんかこう親切にして、絶対好きでしょ? 好きなんだってもうわかるよ? 傍から見てたらもうそうだと思うよ? 好きって言ったの? 「言えない」。で告白しないまま卒業してしまう。


まあクリスチャンになったら結婚するつもりで付き合ってください。結婚しないのに付き合わなくていいです。でもクリスチャンじゃなかったのでね、当時は。言わなかったら伝わらないわけじゃないですか。好きですよって。


同じだと思うんですね。はっきり言わないとわからない。行動だけでは、はっきりしないことがある。私は牧師なので、話し合いの場に出ることが多いです。牧師なので励ましもたくさん言います。でもときには戒めることもあります。「いやそれはダメですよ」とか「それはやらない方がいい」とか。厳しいこと言うときもあります。


相手に心地よくないことを言うとき、冒頭にこう言うことがあるんです。「私はあなたの敵ではないですよ。でもちょっときついこと言うけど聞いてください」って。今日の話は多分痛いな、相手が苦しいだろうな、言われたくないことだろうなって思うときに、そうして自分の立場をはっきりさせておくとちょっとは緩和されて、受け入れやすいんじゃないかと思うので言うんです。


告白で立場をはっきりさせておくことの重要性を、私はしょっちゅう味わっています。賛成なのか、反対なのか。国会や国連においてもそうですよね。このことに関して賛成ですか、反対ですかっていうのを、イエスかノーかではっきりさせるんです。告白によって立場がはっきりします。私たちは口の告白を大事にし続けましょう。神の側に立ち続けるべきです。


私たちの心の中では、しょっちゅう肉と神の霊が戦っています。不満と賛美が戦っています。信頼と不信仰が戦っています。でも私たちは神の側に立ち続ける告白を守りましょう。そうしたら、その告白に導かれていきます。私たちの人生は、信仰に導かれるべきです。感情に導かれるべきではないです。それ は失敗します。論理的・合理的なものだけ考えると、私たちは愛を見失います。そうじゃない。私たちは真理に導かれ、また信仰に導かれていくべきです。私たちの心の中に賛美と不満が混在している。実際のところ、牧師だってそういうことがあります。


そういうとき、不満と賛美をどこに持っていくのかが大事です。私たちはそれを世に持っていくのではなく、神に持っていきましょう。私たちの中にある葛藤を世にぶちまけてしまうなら、ただの愚痴です。苦みが出て人を汚すような存在になってしまうと聖書は言います。


"すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。だれも神の恵みから落ちないように、また、苦い根が生え出て悩ませたり、これによって多くの人が汚されたりしないように、気をつけなさい。"

ヘブル人への手紙 12章14~15節


神に愚痴ったらいいです。神に正直に申し上げたらいい。あれは嫌だったとか、あれ痛かったとか、あれじゃない方がいいってまだ感じてますよって、正直に言ったらいいです。蓋をして生きるのは辛いことです。


子どもって結構正直に言うじゃないですか。あれって、その後それが水に流されていくために重要だったりするわけですよね 。私たちもまず神の前に持っていくんです。「痛かった」「あれはつらかった」「こうじゃないといいと思ってた」とか、正直に神の前に申し上げたらいいです。


詩篇なんかそんなのの連続ですよ。あいつら何とかしてくださいとか、もう転んだらいいみたいな、詩篇の著者は正直に告白します。私たちも同じように神の前に申し上げたらいいです。祈ったらいい。そしたら恵みが注がれるんです。神の恵みが私たちを作り変えるんです。


私たちは弱いものです。私たちは神の子どもです。まだまだまだまだ私たちには成熟が必要なんです。ゆえに正直に申し上げるんです。「お父さん痛かった」「お父さんつらかった」って。実際そうじゃないですか。でもそれを言うことで、天の父の子どもになることで、私たちは大人に成熟していくんです。


「僕は全部自分でできるんだ」。そういう風に言うと、私たちは成長を阻害されてしまうんです。子どもは子どもの立場とプロセスをきちんと守ることで成長するんです。そうでなければ、私たちはちゃんとした成熟に向かうことができません。


私たちは不満も賛美も神の前に持っていきましょう。そうすると、神の御前に立ち続けることが容易になっていきます。

 

f:id:kimatamajurnal:20230630191120j:image


2番目のポイント。

真理に生きるとは、どういうことか。わかりやすくするために、ひとつ例を出すと、「恐れを締め出す愛に生きる」ということです。


真理とは、学問で知るのではなく、生き方を知っていくことです。真理とは歩みであり、真理とは学問を超越したものです。祈りと御言葉の朗読も必要です。学習ももちろん必要です。しかし聞き従うという行動、生き方をもって真理は学ばされていくものです。生き方が大切なんですね。


御言葉は私たちの口に甘いです。御霊に酔うことも私たちの口に甘い。葡萄酒に満たされるようなものです。でも真理は、私たちの腹には苦いことがあるんですね。私たちが体験していく中には苦味があったり、辛いことがあったりするものです。でもそういうものを通して、その真理が自分のものになっていくんです。「頭で知っている真理」から私たちの「生き方として会得した真理」になっていくんです。真理が生き方になっていくことが重要です。


"彼らの中には、家々に入り込み、愚かな女たちをたぶらかしている者たちがいます。その女たちは様々な欲望に引き回されて罪に罪を重ね、いつも学んでいるのに、いつになっても真理を知ることができません。"

テモテへの手紙 第二 3章6~7節


「女」とは、神の民全体を指す言葉でもあります。だから、男性でも女性でもみんなが当てはまるものです。女たち、つまり教会は、実はいつも学んでいるんです。しかしいつになっても真理を知ることができない。なぜなのか。それは、彼らが偽りにたぶらかされて全然その真理の道に生きることをしないからです。行いが伴っていないからです。だからいつまでも真理は学べませんよ、知っていくことができませんよ、と教えてるんですね。


真理は学問を超越したものです。真理は私たちの生き方によって学んでいくものです。悪の声に引き回されているならば、聖書をどれだけ学んでいても、真理を深く体得していくことができません。救われていても肉に引きずられることってあるじゃないですか。ない人いますか? 救われても肉に引きずられるって、私たち散々体験していくわけじゃないですか。この地上にいる限り。


救われているのに肉に引きずられる。それは、愛に生きようとしているのに恐れを引きずって生きるのに似ています。そういう体験ないですか? 


愛に生きることを心がけていますか? 世の中の人だって心がけてる人いるでしょう、クリスチャンじゃなくたって。でもクリスチャンであればなおのこと、愛に生きようと思うじゃないですか。だって私たちをキリストの愛から引き離すものは何一つない。愛を土台として、愛に根ざし、愛に基礎を置いて生きているのが私たちじゃないですか。私たちは、愛に生きることを心がけている者です。私たちに与えられたキリストの律法、キリストの戒めは、主が愛してくださったように互いに愛し合うことです。だから愛を心がけていないということはないです。みんな心がけてます。でも恐れがやってくることがあります。怖いなぁと思ってしまうこと、私はあります。


愛そう愛そうと思っているのに、恐れに引きずられてしまう。さあどうしたらいいか。

ひとつおすすめしたいのは、そういう状態のときこそ、キリストの十字架の前に出ていくことが必要だってことです。


"キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。"

ペテロの手紙 第一 4章1~2節


神の御心に私たちが生きるようになるために「キリストと同じ心構えをしなさい」と、聖書は薦めます。


十字架についたイエスキリストの心構えと同じ心構えを持ちなさいと教えているんですね。あの苦しみを何としても避けたいと、生まれつきの私たちは思うんです。でも、苦しみを何としても避けるという大前提では、恐れは消えないんですよ。私は本当にそう思っています。案外、死を覚悟するとき、何も怖くないという気持ちになる。死ぬ気になったら何でもできるよとか、世の中でも言わないですか? ただ死ぬことにフォーカスしてずっとそんな気持ちでいるのは、また不健康だと思うんですけれども、でもキリストと同じ心構えで、愛のゆえになら犠牲を払ってもいいという心です。その心を持つのであれば、私たちの中から恐れは締め出されていきます。愛と恐れは水と油です。愛が私たちの中で燃え上がるなら恐れが出ていきます。私たちが愛を小さくして恐れ、共存しようとしていくとどんどんどんどん愛は小さくなっていきます。萎縮していきます。怖くなっていきます。


キリストと同じ心構えを持つ者になっていきましょう。そうして私たちは御心のために生きる者になっていくんです。愛に生きる者、恐れを締め出して生きる者。そのようになっていけるから感謝します。


私たちはバッチ来いって心、持ちましょう。どんどん来い! あんまり言わないですか? バッチ来いって野球部のノリですよ。私、野球やってないんですけどね。水泳ですけど。


痛いのやだなぁって言うと、もう私たちいつまでもその奴隷なんです。でももう愛に生きるんだバッチ来い!と。バッチ来いって言ってみましょうか笑


私はしょっちゅうそういう気持ちになります。それって弟子の心ですよ。自分を捨て自分の十字架をもってイエス様についていくんですよね。だからもうバッチ来いって心、自分が苦しみを受けるかどうかにフォーカスする生き方じゃないです。愛にフォーカスする生き方です。愛を全うしていくためなら、苦しみを通ることだってある。それをもう悟ってしまうことです。理解してしまうことです。心構えで受け入れてしまうことです。そしたら苦しみの方が逃げていくんです。怖くない! そういう風になっていきます。最高にハッピーなことです。真理を学んでいくんですね。


"同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。泉が、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させるでしょうか。"

ヤコブの手紙 3章10~11節


私たちの心から愛と恐れが同時に出るのは良くないです。私たちの口から苦い水と甘い水が同時に出てくるようなものです。そんな生き方をしてはなりません。ひたすらに愛が出てくるのが理想です。


恐れが湧くたびに十字架の前に行きましょう。主は先にある喜びを見て、恐れや恥をものともせずに、そのような心構えをして十字架を成し遂げられたんです。


"信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。"

ヘブル人への手紙 12章2節


同じ心構えを持つようになっていきましょう。私も学び続けています。皆さんも一緒に学びましょう。キリストの生き方を、キリストの心を、イエスキリストを知っていきましょう。それは真理を知るということです。


"愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。"

ヨハネの手紙 第一 4章18節

 

f:id:kimatamajurnal:20230630191322j:image


短く3番目のポイントいきたいと思います。それは、救いが、自分のイメージした救いではないことがあるということです。


ユダヤ人たちは大祭司たちの声に聞いて、流されていきました。流された理由の一つは何なのか。キリストが、ユダヤ人のイメージしていたメシア像と違ったのです。彼らのメシア像は、軍事的・政治的にユダヤを解放してくれる人。数百年前に活躍してエルサレムを開放したユダ・マカバイです。マカベヤ王朝を築いた人ですが、彼は勇敢に戦って負け知らずだったんですね。それでそのようなメシア像を抱いてたのです。


復活を見た11弟子たちでさえ、イエスキリストが復活して一緒に歩いてるときに、今こそイスラエルを再興してくださるのですかと言いました。「軍事的政治的に解放してくれるリーダーを、今こそ私たちは見ることができるのか?」と告白しています。でもそうではなかった。


何が間違っていたのか。彼らのメシアイメージが間違っていたんです。彼らのイメージは「ローマから解放してくれるメシア」でした。でも実際のメシアは、ローマからの解放ではなくサタンからの解放を与えてくださいました。もっとスケールの大きなこと、もっと本質なところをやってくださったんです。本質的な解放です。ローマから解放したって、また次の国がやってくるでしょう。また支配されるでしょう。ずっとそうだったわけじゃないですか。バビロンに侵略され、メドペルシャに侵略され、ギリシャに侵略され、ローマに侵略され。エルサレムは絶えずどこかの属国として支配され続けてきたんです。ローマから解放されても、またやってくるんです。


エスキリストがしようとしていたのは、そんな解放ではありませんでした。サタンからの解放を成し遂げてくださったことを感謝します。彼らのメシアイメージが間違っていたゆえ、彼らはサタンに誘惑されたんですね。「メシアじゃないよあれは」そういう声に乗ってしまったんです。


だから、私たちのイメージ通りの救いでなくても、信じ続けましょう。この御名のほかに救いの御名は与えられていません。私たちの願っている救いというものがあるでしょう。その通りになるときもありますが、その通りにならないときもあるんです。「たとえそうでなくても」という心を持ちましょう。そうでない場合は、私たちの持つイメージよりもはるかにスケールの大きな救いを、神が用意しているということです。なのでそれを受け取りましょう。


一言お祈りします。


天のお父様。

「たとえそうでなくても」、私たちの救い主はイエスキリストです。私たちには、願っていることがあります。できるならこの苦しみの杯を遠のけてください、と私たちも正直にいつでも告白します。しかし私たちの願う通りではなく、父の御心の通りになさってください。それこそが本当の良い道であるとを信じます。私たちが信頼するのは、私たちの願った通りになることではなく、あなたの栄光が現されることです。主よ、それをあなたの願っている立場で見ることができるために、私たちの口の告白をきよく保つことができるよう、どうぞ導いてください。大祭司イエス様にこの心が開かれ、絶えず私たちの耳がイエスキリストに対して開かれていきますように。そして真理への愛、主が愛してくださったように互いに愛し合う愛、恐れを締め出すまったき愛に生きていくことを願い求めます。力をお与えください。救いをお与えください。私たちの力となってください。御言葉の成就を見させてください。あなたに信頼します。ことを成し遂げるのは私たちの力ではなく、主ご自身です。あなたの力、あなたの恵みに期待しています。感謝して、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。