きまたまジャーナル

オーロラの海に浮かぶ氷山と、アーモンドの花冠

個人的メッセージメモ 9

神様が癒やして用いる人達

ダニエル・リー師

https://youtu.be/YoChZXijedA

 

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エス様を通して人々は多くの癒しを経験したが、すべての盲人が見えるようになったわけではない。主は、どういう人を癒し用いるのか。それを見ていこう。


私たちは問題のため絶えず祈るが、ある人は答えをすぐ受け、ある人はなかなか答えを受けられない。一般に、これはその人の信仰と従順に理由がある。

 

"イエスが入って行かれると、村でも町でも部落でも、人々は病人たちを広場に寝かせ、そして、せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、いやされた。"
マルコの福音書 6章56節


エス様のもとに来た人、触った人はみな癒されたが、「ある人々」だけは癒されなかった。それはイエス様を認めない人たち。皮肉なことに、イエス様の故郷ナザレの人だった。

 

"この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。
エスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。"
マルコの福音書 6章3~5節


素晴らしいイエス様が来ても、信じなければ罪の許しを受けることはできない。信じなければ、癒しを受けることはできない。すべて信仰にかかっている。イエス様は会堂で明確に語った。

 

"「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」"
ルカの福音書 4章18~19節


エス様は、私たちを罪と悪魔から自由にするため来られた。しかしナザレの人々は、その目でみわざを見ても信じなかった。イエス様が何一つ力あるわざをできなかったほどの不信仰。主は言われた。「信仰がなくては神の栄光を見ることはできない」と。

 

"わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。"
ルカの福音書 4章25~26節


神がどんなに全知全能でも、自分に信仰と従順がなければ何も受けることができない。だからイエス様はエリヤの話をした。


アハブ王の治世、神は3年半の飢饉をもたらされた。国民もエリヤも困っていた。しかし驚くべきことに、神はカラスでエリヤを養う。川が干からびると、今度はサレプタのやもめにエリヤを送られた。貧しいやもめには最後の食糧しか残っておらず、食べて死を待つところだった。ここにエリヤが来たのである。

 

"エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。"
列王記 第一 17章13節


知らない人が突然来て、最後の食糧を私に持ってきなさいという。最後の最後なのに、その後であなたとあなたの子供のために作りなさいと。そして神の約束を語るのである。


私はここを読むたび、自分ならどうしただろうと考える。節約して食べて、これが本当に最後の最後。しかし見ず知らずの人が御言葉を言い、よこせという。たいていの人は信じず、従順しないだろう。


当時の人々も、このやもめのような従順はできなかった。エリヤの言葉を聞いて従順できる人はイスラエルの中に誰もいなかった、とイエス様は言った。このやもめだけだと。だから主はこの人のところにエリヤを送った。当時もし従順できる人がおおぜいいたなら、その人たちも救いを受けたのである。


大飢饉の中に、数えきれないやもめがいたはず。神様を信じて従順する人だけに、神は恵みをお与えくださる。今後もっと厳しい時代が来るが、これは従順の模範である。みことばのとおりにすばらしいことが起きる。

 

"彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。
エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。"
列王記 第一 17章15~16節


エス様はもう一つのたとえを話される。

 

"また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、ツァラアトに冒された人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」"
ルカの福音書 4章27節


エリシャの時代、癒されたのはアラムの異邦人ナアマン将軍のみ。預言者の言葉に従順したのはナアマンだけだったから。神はすべてをご存じで、ここアラムにエリシャを導かれた。

 

"エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」"
列王記 第二 5章10節


自分の願いと神がなさることとが違うので、ナアマンは怒った。これはありがちで、また最も大きな信仰の問題ともいえる。


自分の考えと神の基準とが食い違うとき、私たちはどんな態度をとるだろう。自分の利益が神の利益に反するとき、どんな態度をとるだろう。自分の思いに従えば、恵みは受けられない。自分を点検する必要がある。弟子訓練するなかでもそれを感じる。そのままでは神はその人に働かない。


ナアマンもはじめは従順できなかった。しかし、神は私たちの心の動機が純粋で正しいなら、また正しく生きようとするなら、必ず回復の道を与えてくださる。間違った決断をするとき、教えさとしてくださる。


そのときが重要である。そのとき自分を下ろせる人が、本当に知恵のある人。神は救い、恵もうとしている。頑なになってそれを無視すると、恵みを受けることが難しくなる。

 

"そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」"
列王記 第二 5章13節


ナアマン将軍の驚くべき姿勢がここにある。しもべの忠言を聞き入れたのである。


地位が高い人、多く持つ人は人の話を聞きたがらないもの。自分がいつも正しいと思っているし、決断を覆すのもプライドが邪魔してできない。だから、頭でわかっていても自分の気持ちを下ろそうとはしない。しかし、ナアマンは自分からヨルダン川に入っていった。

 

"そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。"
列王記 第二 5章14節


信じないナザレの人々に、イエス様は「信仰がなくては栄光を見ることができない」と言われた。預言者の言葉を信じてヨルダンに入ることができたのは、ナアマンだけだった。


神の御言葉を聞きそのまま従順すること。信仰を示すこと。それが奇跡を体験する道である。


いつでも私たちはイエス様の証人にならなければならない。目が開かれた盲人は、尋問された。パリサイ人の目的はイエス様のキリスト性を否定すること。盲人の口からそれを聞きたいがため尋問した。当時イエス様をキリストと信じる人は会堂から追い出されたので、両親さえそれを恐れた。

 

"そこで両親は答えた。「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。
しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。」
彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。"
ヨハネ福音書 9章20~22節


その当時は言えない雰囲気だったわけである。しかし盲人はこう答える。

 

"そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」"
ヨハネ福音書 9章17節


ここの預言者とは、神が送った人という意味。それでパリサイ人は彼を罵った。にも関わらず、盲人はイエス様を主と告白する。

 

"彼らは彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。
私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」"
ヨハネ福音書 9章28~29節


神が私たちの病をいやし、祈りにこたえるのには目的がある。それは私たちがイエス様の証人になること。この盲人こそ最後まで宣言していた。

 

神の御心はすべての人が救われ真理を知るようになることで、その道はイエス様である。イエス様を証しするため救われ、選ばれたことを知ろう。どこに行ったとしても、証人になるため努力しなければならない。


永遠の命を得たことを常に感謝すること。光の子供らしく正しく生きようとすること。答えを受けた祈りがあるなら、堂々と証しすること。すると神様はさらに大きな祝福を持って、もっと証しできるようにしてくださる。

 

"イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。"
ヨハネ福音書 9章3節


神のわざがあらわれるため、この人は盲人として生まれた。盲人が目を開かれることで証しする。しかし証ししないなら、その人の存在や病の癒しに目的はない。神が私たちに聖霊をくださったのも、イエス様の証人となるためだ。


祈りの答えを受けたら、けして恥ずかしがってはならない。私たちは天国で永遠に生きる。救いを受けたのに、なぜ地上でまだ生かされているのか。それは証人となるため。この使命をまっとうしていないなら、私にはこの地上で存在する価値はない。

 

"ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。
しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。"
マタイの福音書 10章32~33節


祈りの答えを受けたら、堂々と喜んで証ししよう。そうすると神様からさらに豊かな祝福が注がれるようになっている。理由をつけ沈黙するなら、人生がそこで終わることもある。


エス様がある町で、ツァラァトの人を癒される場面がある。

 

"イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。"
ルカの福音書 17章14節


10人癒され、一人だけ大声で賛美し戻ってきた。そしてひれ伏して感謝を表現した。その人はサマリヤ人だった。

 

"そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。
神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」"
ルカの福音書 17章17~18節


証し、それがするべきことである。