自我の砕きと霊の解放
ダニエル・リー師
信仰生活をしていても、自分が砕かれなければ何も起こらない。これを心に留めなさい。
神の働きには色々あるが、奉仕や伝道活動自体が重要なのではない。重要なのは、私たちが話す言葉や行いより、そこから流れる霊。なぜなら、相手を変えるのは私たちの言動ではなく、私たちから流れる霊だからだ。
メッセージよりも大事なのはメッセンジャーで、何を伝えるかより、誰が伝えるかが本当に大切。内容とともに霊が流れていくから。
自我を砕かれた人からは、メッセージとともに聖霊様が流れる。それゆえ、メッセージを聞く人の心が聖霊様によって刺され、主に立ち返る回心のわざが起こる。また聖霊様が聞く人に恵みを与えて、その人が神にどんどん近づくよう導いていく。
しかし、もし自我が砕かれていない人が語るなら、その人自身の霊が流れる。どんなに正しい言葉を並べて語っても、そこにはその人の自我、考えが含まれてしまう。そのため、結局は相手を躓かせることになる。
砕かれていない自我を演技で隠すことはできない。時間とともに実として現れてしまう。だから、本当に神の栄光を表す神の子となるには、自我が砕かれることに尽力せねばならない。
神の心に叶うダビデの告白は、つねに次のようなものだった。
"神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。"
詩篇 139篇23~24節
ダビデは、「あの人を調べてください」とは言わず、いつも「私を調べてください」と願った。本当に砕かれた人の心には、神の霊が自由に行き来するようになる。
第2列王記には興味深い箇所がある。エリシャとシュネムの女の話だ。
"ある日、エリシャがシュネムを通りかかると、そこにひとりの裕福な女がいて、彼を食事に引き止めた。それからは、そこを通りかかるたびごとに、そこに寄って、食事をするようになった。
女は夫に言った。「いつも私たちのところに立ち寄って行かれるあの方は、きっと神の聖なる方に違いありません。
ですから、屋上に壁のある小さな部屋を作り、あの方のために寝台と机といすと燭台とを置きましょう。あの方が私たちのところにおいでになるたびに、そこをお使いになれますから。」"
列王記 第二 4章8~10節
シュネムの女は、エリシャが神の人とは知らずもてなしていたが、あるとき気づいて、部屋まで用意するようになった。エリシャは彼女に神の言葉を一度も語らなかったし、奇跡も行わなかったのに、なぜ彼女は気づいたのか。それは、エリシャとともにいるとき、神の霊がシュネムの女に触れたからである。
こういう話は、現代でも証として残っている。イギリスのスミス・ウィグルスワースの例を挙げておく。私たちの霊が砕かれるなら、聖霊様は自由に流れていくらでも働くことができる。それゆえ、神は私たちの自我を砕こうとなさる。
自我は私の内側にあり、私が自分で砕けるものではない。植物の殻は、外界の湿度と温度によって破れるもの。私たちも周囲の環境により砕かれていく。それは祝福の道である。
砕かれるとき、神から光が放たれる。そのとき、一瞬のうちに、人は自分が誰であるか悟る。裸にされたような、これ以上はないほどの恥ずかしさを感じるようになる。神のみ前で顔を上げることもできない、そんな気持ちである。
パウロも「私は罪人のかしらだ」と言っている。これはけして、カッコをつけて残したセリフではない。
過去の罪について話すとき、やや自慢を交えて話す方がいる。その人は、まだ神の光に照らされていない。
神の光が来るなら、自分の罪がどれほど汚く恥ずかしいものか分かるし、自分の高慢さがどれほど恐ろしいものか即座に悟る。そのような人は、自分の過去の悪を自慢めいて語ることはできなくなる。むしろ、何とかこれを断ち切りたい、2度と罪を犯したくないという思いで証するようになる。
神の光に照らされること。これはクリスチャンが持てる最も貴重な体験の一つだ。この経験こそ、人を本当の救いの道に導いていく。
主は私たちを砕かれるが、それはすなわち私たちを建てあげること。私たちに不必要なもの、あってはならないものを神は砕かれる。それは、私たちを回復させ新しい希望を与え、立て直すためである。
誰でも、汚れた器や割れた器に料理を盛ろうとはしない。だから私たちがそのままでいることはない。
エレミヤ1章には、エレミヤが神の人として呼ばれる場面がある。
"そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。
見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」"
エレミヤ書 1章9~10節
神が私たちに持っておられる計画は、建て、植えさせることだ。しかしその前に、引き抜き引き倒し、滅ぼし壊すことが行われる。
いつも私を苦しめるあの人は、私を壊して新しくするために、神が置かれた人。私の運が悪いから、その人がそばに来てしまったのではない。その人を通して私になされる、神のみわざを見なければならない。
ダビデは王であり、イスラエルの中には彼にとって怖いものは何もなかった。にもかかわらず、ダビデは口で罪を犯さないよう必死で努力した。
"私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないために。私の口に口輪をはめておこう。悪者が私の前にいる間は。
私はひたすら沈黙を守った。よいことにさえ、黙っていた。それで私の痛みは激しくなった。
私の心は私のうちで熱くなり、私がうめく間に、火は燃え上がった。そこで私は自分の舌で、こう言った。"
詩篇 39篇1~3節
言いたいけれども言えない…それはとても苦しいこと。特に、誰が見ても相手が悪く自分が正しいのに、それを自分からは言えないとき、このような気持ちになるだろう。
ダビデは王だから、言いたいことを言って正しく裁き、相手の命を取ることもできた。しかしそうせず、神の前で「自分は何者でもない」という黙想をしている。なぜダビデは話さなかったのか。
"私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさったからです。"
詩篇 39篇9節
ダビデは、人生に起こるすべての事の背後には、神のゆるしとご計画とがあることを知っていた。だから、自分勝手に動かず、神の心を求めて徹底的に自分を探っていた。王座に着きながらこれを行うのは、とても難しいことだ。だからダビデは神の御心に叶う者となることができた。
完全に砕かれた人からは、常にキリストの香りが放たれる。その人はどこに行っても、イエス様の真の証人になることができる。
"しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。
私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。"
コリント人への手紙 第二 2章14~16節
私たちを通して、聖霊様が相手に色々な栄養を送られる。救われていない人にも必ず悔い改めの心を与えて、救いの道に導いてくださる。もちろん、最後まで拒む人たちもいるが、彼らにとっても、私たちは終わりの日の裁きの座での証人なのである。そのときには弁明は許されない。
同じ内容を伝えたとしても、語る人によって得られる成果は変わってくる。繰り返すが、言葉とともにその人の霊が流れるからだ。
このことは、みな自分でも経験し知っているはずだ。誰かと会い、交わる中で経験する現象である。
ある人とは、さほど言葉を交わさなくとも心が平安で落ち着く。温かいし、もっと時間をともにしたいという気持ちが湧く。長時間一緒に過ごしても、重荷になることがない。
しかしある人とは、その人が話すことはまあまあ正しいが、何かわからない拒否感を感じる。一緒にいるのが重荷で負担である。話しながらも、早くどこかに行ってほしいと思ってしまう。これはすべて霊の問題であることを悟っていただきたい。
砕かれていない人からは、自分が出て行く。話の内容ではなく、とにかく自分というものが出て行く。それが聞き手の拒否感や重荷となる。これは、正直にそれぞれが自分を見つめれば、分かるはずだ。
砕かれた人は、だんだん柔らかくなるという特徴がある。
"あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。"
エゼキエル書 36章26節
これは私たちが救いを受け、生まれ変わるときの話だ。主はただ新しいものを与えるだけでなく、固くなってしまった石のような心を取り去って、本当に柔らかな肉の心を与えてくださる。これはとても大切なことだ。
肉の心とは、神様の言葉をよく聞いて従順していく心を指す。従う人になるのである。
"わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。"
エゼキエル書 36章27節
エジプトから救い出された民は、神の言葉にずっと不従順していく。その不従順を引き出すのが頑なな心だと聖書には書いてある。
"「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。
聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。
神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。
また、わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。
それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。"
ヘブル人への手紙 3章15~19節
頑なな心が不従順を引き起こすので、聖書はずっと警告を与えている。
"兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。"
ヘブル人への手紙 3章12節
なぜ不信仰になるのか。
"「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。"
ヘブル人への手紙 3章13節
頑なな心をもってはならないのだ。御言葉が撒かれたら、柔らかい心で受け取らねばならない。「きょう」つまり毎日そうしなさい。そのようにして、私たちは最後まで走っていかなければならない。
"もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。"
ヘブル人への手紙 3章14節
自分は頑ななのか柔らかいのか、正直わからないという人がいるだろう。しかしまわりの人たちはわかっている。あなたも他人のことならよくわかるはずだ。
頑なな人とは会話ができない。従順できないだけでなく、正しいことを言ってあげても聞こうとしないし、変わろうともしない。いつも自分の意見、自分の態度、自分の主張。その点だけはイエス様と同じで、「昨日も今日もいつまでも変わらない」。頑なな人と生活したり、仕事をしたりすると、本当に息が詰まる。こちらの気が狂いそうになる。
実は、頑なな人に対しては、神様ご自身も同じように感じている。どんなに救ってあげようとしても、頑なな心には何も入っていかない。こちらの気が狂いそうだ、と。
しかし、そのような人が砕かれると、神様を本当に恐れるようになる。だから、頑なな人には、砕かれる方向しかない。
砕かれた人は、人との接し方もとても柔らかい。声のトーンや態度も柔らかくなるので、一緒にいて怖いこともない。また、砕かれた人は聞き上手でもある。間違いを指摘すると、それを感謝なことと思い直していこうとする。
では、砕かれた人が罪をまったく犯さないかというと、これは別問題である。しかし罪に対しては敏感になる。他人の感情を害したときにも敏感である。そのようにして、罪を犯さないように、人に害を与えないように、注意して生きるようになる。そして、罪を犯してしまったら、すぐさま悔い改めるようになる。
砕かれた人の感情は、年老いても豊かである。またよく涙を流す。泣かない人は霊的に問題があるかもしれない。また、砕かれた人は、他人を非難したり批判したりするよりは、憐みを持つようになる。自然に心広く寛大になっていく。
自我が砕かれた人は、霊が開いているといえる。聖霊様と交わることが簡単になっていく。またどこにいても臨在を簡単に感じることができるし、啓示や主の心を感じることが簡単になっていく。
「整えられる」という御言葉があるが、主に会えば会うほど、人は整えられていく。
霊の開かれた人同士が会うと、神の家族なんだなと感じるようになる。一緒にいてラクなだけでなく、お互い主につながっているので、お互い建てあげて益を与えることができる。交わりの中に、喜びと感謝が満ち溢れるようになる。
自我を砕くのは簡単なことではない。自分自身を完全に下さなければならないから痛みも伴うし、苦しいことでもある。しかし、自分を下そうとするときから、本物の自由が心に訪れるようになる。また本物の幸せも感じるようになる。自分の人生の最優先事項も悟るようになる。
神との関係、人との関係において、自分は頑ななのか柔らかいのか、点検しよう。どんなに格好をつけて神の働きをしても、砕かれていない人はすぐに目立つ。いい言葉を述べれば述べるほど逆効果である。だから、自分が砕かれることがまず先だということを知りなさい。
頑なな心を持ったままだと、何も実を結ばない人生が残る。神のみ前で、本当に私を砕いてくださいと叫ぼう。真の願いをもって叫ぶなら、主は必ず助けてくださる。そのとき本当の自分を知り、真の自由へと入ることができる。