きまたまジャーナル

オーロラの海に浮かぶ氷山と、アーモンドの花冠

個人的メッセージメモ 2

神様が認めるものだけが残る

ダニエル・リー師

https://youtu.be/Z1NqqRP7NUc

 

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私たちはときに、幼な子ががむしゃらにせがむような祈りも捧げる。しかし、神様の御心通りになるのが一番良い道である。


YouTubeで、ビジネスパスターであるゲリー先生の証を聞いた。


2005年、エルサレムで広告撮影をしていた先生は、突然さばきの幻をみた。自分の友人知人、また偉大な働き人たちが、大勢さばきの座に並んでいた。彼らの誕生から死までの映像が一瞬のうちに見られた。


さばきには明確な基準があった。それは「神様が指示した働きだけが残る」というもの。人の目には本当に素晴らしく見える働きであっても、神様が指示しなかったものは、その場ですべて焼き尽くされた。


主が先生自身にも働きの場面を見せ、あなたは間違っていると、御言葉とともに何度も警告された。

 

"だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。"

ヨハネの黙示録 2章5節

 

未だかつてない恐怖に襲われ、先生は何日も苦しむことになった。そののち「わたしの声に敏感な人になりなさい、そしてわたしに従いなさい」と主が言われた。ゲリー先生は努力し、従順したものはすべてうまく行った。


しかしあるとき、また、神様の御心ではなく自分のやり方で行っている自分に気づいた。失敗し、苦しむことになった。


そのような体験から、先生はさまざまな注意点を与えてくれた。

 

 

☆神様の計画に従った働きだけが残る

 


永遠のいのちを受けるには、必ず罪を悔い改め、イエス様を救い主として受け入れなければならない。救いは人が代価を払って得るものではない。ただ心から悔い改めてイエス様を救い主とするなら、恵みにより、誰でも永遠のいのちを受け取ることができる。


しかし、私たちが天国で受ける報酬や冠は、行いにより受けるものだ。

 

"「見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。"

ヨハネの黙示録 22章12節

 

「行いに応じて報いる」とあるように、神の働きだからとがんばったことすべてに報いがあるのではない。注意が必要だ。

 

"イエスは答えられた。「わたしの天の父が植えなかった木は、すべて根こそぎにされます。"

マタイの福音書 15章13節

 

エス様も「天の父が植えなかった木は根こそぎにされる」と言われた。神が植えたものだけが残る。 

 

"私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。

だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。

だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。

だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。"

コリント人への手紙 第一 3章10~14節

 

みなさんが住む永遠の家は、ただ建てさえすれば残るのか。そうではない。どのように建てるか、それぞれ注意せよと書いてある。


私たちの土台はイエス・キリスト。イエス様を信じて救われた人のみ、永遠の家を建てることができる。天国に入るのはこの人々だけだ。


だから、まずイエス様を信じることを前提として、次に家を建てるという行いが出てくる。建築資材は私たちの信仰生活を表す。ある人の信仰生活は金銀宝石のようで、ある人の信仰生活は木・草・わらのようだ。


「各人の働きの真価を試す」とある。試験を通過した働きのみが残る。金銀宝石の建物は残るが、木や草・わらの建物は焼かれてしまう。だから「建物が残れば、その人は報いを受ける」。


エス様を信じた全員が救われる、と解釈するなかれ。これは、イエス様を信じるクリスチャンについて示すみことばだからだ。


私たちの働きのすべてが残るのではなく、あるものは焼かれる。本当に神様が指示した働きなのか、点検しなければならない。

ゲリー牧師は3つの注意点を述べた。

 

 

●成功のもたらす高慢

 


うまくいけばいくほど、人は高慢になり、高慢になるとすべてを失う。


リック・ジョイナーの著書に「ファイナルクエスト」という、終わりの日のさばきの情景を記録した本がある。ジョイナー氏は、そこで多くの歴史上の人物に会う。有名な宗教改革者もいたが、イエス様とは離れ、はじの方にいたという。なぜ歴史的偉人がそんなところにいたのか。


彼は自分が高慢になったことを告白したという。死ぬ瞬間すべてを悔い改めて、やっとのことで御国に滑り込んだそうだ。


高慢になると、私たちはすべての報いを失うだけでなく、悪魔と同じさばきを受ける。

 

 

●自分の利益のために働く

 


神様の恵みの大きさゆえに献身した人でも、自分の名が高められ、いろいろな物質が入るようになると心が変質する。ある瞬間から、自分の利益のために働く人になってしまう。


その一線を越えると、どんなに大きな働きをしたとしても、さばきの日に「不法をなす者ども。わたしから離れていけ」というシーンを迎えるかもしれない。

 

 

●自分の方法で働く

 


自分の計画を達成するため、見てもいない幻を見たと言ったり、聞こえてもいない御声を聞いたと言ったりして、人を動かそうとする人がいる。また「あの人がこういうことを言っていた」と偽りを言い、人を動かそうとする。しかし、神様の働きにおいては動機も方法も正しくなければならない。


そのようなことをすると、神様が働くことができなくなる。私たちは正しい方法をとらねばならない。神様の御手で神様がなされるようにと、忍耐し待たなければならない。

牧会をしていると、このようなことがたくさんある。それは聖徒たちの関係を難しくし、教会の分裂やつまずきを引き起こす。

 

 

●パターン化されてしまう働き

 


賛美やメッセージなどの働きも、はじめてのときはどきどきして一生懸命祈る。しかし慣れると、恵みの主題が働きのパターンになってしまう。「あのようなやりかたがよい」「あのような歌が臨在をもたらす」。けしてそうではない。


同じことを繰り返すこと自体が問題なのではない。毎回同じでも、毎回必ずひざまずいて、神様の恵みを慕い求めねばならないのだ。


ヨハネ3章によれば、聖霊様は風のように働かれる。風がどこからきてどこに吹いていくのか、予測できる人はいない。主はこの場所で今日はこのように働いたが、明日はほかの方法で働かれることもある。私たちはその都度、求めていかなければならない。


誰もが最初は恵みを求めて奉仕するものの、疲れたり忙しくなったりすると、祈ること自体をやめていく。するとあるときから、神様がおられず、指示もしていないのに、働きはひとりで走り始める。「私たちなりに一生懸命にやりました」と言っても、主はその働きを決して評価されない。


御心にかなったといわれるダビデを見ると、いつも祈りを先にしていた。


"一方、ペリシテ人はやって来て、レファイムの谷間を侵略した。

ダビデは主に伺った。「ペリシテ人のところに攻め上るべきでしょうか。彼らを私の手に渡してくださるでしょうか。」主はダビデに言われた。「攻め上れ。わたしは必ず、ペリシテ人をあなたの手に渡すから。」

ダビデはバアル・ペラツィムにやって来た。ダビデはそこで彼らを討って、「主は、水が破れ出るように、私の前で私の敵を破られた」と言った。それゆえ、その場所の名はバアル・ペラツィムと呼ばれた。

彼らはそこに自分たちの偶像を置き去りにした。そこでダビデとその部下はそれらを運び去った。

ペリシテ人は、またも攻め上り、レファイムの谷間を侵略した。

ダビデが主に伺うと、主は言われた。「上って行くな。彼らのうしろに回り込み、バルサム樹の茂みの前から彼らに向かえ。バルサム樹の茂みの上で行進の音が聞こえたら、そのとき、あなたは攻め上れ。そのとき主はすでに、ペリシテ人の陣営を討つために、あなたより先に出ているからだ。」

ダビデは主が彼に命じられたとおりにし、ゲバからゲゼルに至るまでのペリシテ人を討った。"

サムエル記 第二 5章18~25節

 

ペリシテ人がユダに侵略してきたとき、ダビデはまず神様に伺い、大きな勝利をもたらした。次の戦いでは、祈ると別の方法が示され、行くなと言われた。

神様の指示通りにするとき、神様は常に先に行かれ、勝利をくださる。


結局は、神様が指示されたこと以外を一生懸命やっても評価されない、ということを覚えねばならない。

 

 

☆人の心は御声に反応するよう作られている

 


クリスチャンは御声を聴けるよう作られている。聖霊様は私たちの内側に来られた。

 

"あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。"

コリント人への手紙 第一 3章16節

 

正しく御声を聞きさえすれば、だれでも人生を勝利していける。主は私たちが教会にいるときだけ語られる方ではない。家庭でも、職場でも、学校でも語られる。


なぜ正しく聞けないのか。ゲリー氏は私たちの心に入ってくる声を4つに分類した。

 


1)理性の声

  →自分の知識や経験から来る声である。


2)欲望の声

  →人の中には、肉の欲・

   暮らし向きの自慢・情欲などがある。


3)悪魔の声


4)神の御声

 


これらはつねに入り混じって聞こえ、区別できない。間違った声に反応し始めると、地上での生活は困難にぶつかる。永遠の報いも失うかもしれない。


ゲリー先生は情報断食するよう勧めている。


悪魔は、人間の肉の思いや五感を通して、世の中から声を持ってくる。ゲリー先生は40日間の情報断食を教会に布告した。もし私たちが御声を正確に聞くことができるなら、不従順より従順のほうが楽になっていく。教会は、神様からの情報に専念しながら、臨在と油注ぎだけを求め始めた。


聖書を読むこと、信仰書を読むこと、祈ること、賛美すること、礼拝すること。神様だけに関心を持つということだ。


私も悪魔から来る情報を完全に遮断することにした。テレビを裏返し、インターネットの線を抜き、スマホを閉じた。芸能界やスポーツ関連のニュースを全部やめ、セキュラーな音楽をやめ、雑談とゴシップを全部やめた。


一番難しいのは、メディア断食である。


これまで、私が最終手段としてみなさんに勧めてきたのは断食の祈りであった。しかしその効果は、断食をやめると失われていく。


生活の中でもっとも誘惑を受けやすい部分、間違った情報による影響を受けやすい部分、そこに断食を宣言して行うなら、すばらしい効果を得られる。もっと強いクリスチャンとして、さらにみこころにかなう者へつくりかえられていく。


ゲリー先生の教会でも、情報断食によりすばらしい実を結んだ証がたくさんあった。御声を正確に聞けるとき、人は明確に決断し前進できる。ある男性は12年も間違った異性関係を持っていた。助言も祈りも受け、本人も間違いに気づいていたが、誘惑に負け続けていた。しかし40日の情報断食のあと、自分が何をすべきか明確に悟った。内側にいる聖霊様の声を聞いたのだ。それが人生のインパクトとなり、彼は決断して自分を変えていった。


慰めばかり求める人がいる。自分の状況を人に知ってもらうと、それで満足して終わってしまう人。本当は変わらねばならないのに、自分の変化すべき点を「弱さ」などと弁明してしまう人。


人間的な友であれば、慰め同情するだろう。しかし、たとえ人からどんなに理解されたとしても、さばき台の前でその人が神様に理解されることはない。


神様は私たちよりも愛がないのか。そうではない。神様は、私たちを勝利できるよう作ってくださった。神の霊を注がれたので勝利できるのだ。黙示録をみよ。2章3章に、7つの教会への警告を見ることができる。聞く耳のある者だけが勝利すると書いてある。


私たちは本当に神の子ども。罪や弱さに同情してもらえるから、解決できるわけではない。決断すべきことは決断し、聖霊の力で前進しなければならない。いちばんの近道は、自分で神様の御声を明確に聞くことだ。


ゲリー先生の教会では、40日メディア断食で多くの人が明確に御声を聴くようになった。ある人は事業を始め、ある人は結婚し、ある人は宣教師を支援した。


御声を聞くとき邪魔するものがある。心配・憂い・不安があると、けして御声を正確に聞けない。私たちは世の雑多な悪い影響下で生きている。だから自然に悪い心の状態が生じる。すべてを遮断せねばならない。


"神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。"

テモテへの手紙 第二 1章7節

 

心配・憂い・不安は主の思いでないことが、ここに明記されている。

 

"何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。"

ピリピ人への手紙 4章6~7節

 

たくさんの心配があるときは御声を聞けないので、抜け出す必要がある。


実は多くの人に、

「自分は神様の声を聞けないのでは?」

という不安があり、それゆえ人の言葉に頼ろうとする傾向がある。しかし、もしうまくいかなければ、その人のせいにしてしまう。


これは間違っている。あなたも必ず聞くことができる。他人の意見は参考にはなるが、それだけを信じついていくのは危険。祈って答えを得ねばならない。人生の決断は多くある。主は必ず答えてくださる。


主の答える方法が「祈り」である。


ある人は、他の方法で御声を聞こうとする。おみくじのように聖書を開いてひく。そのように探してはならない。運勢をみるものではないからだ。カンや感情に頼ってもいけない。祈って、霊の中で聞かねばならない。


4つのパターンをよく覚えよ。肉の欲から来る声を断ち切り、悪魔の声を断ち切るなら、残りは主か理性的判断によるもの。難しく考える必要はない。悪いものを断ち切るなら、良いものが残っていく。


日々の生活の中で勝利していくことを祈る。