心から赦して祈りましょう
2022.2.6 ダニエル・リー師
"まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。"
マルコの福音書 11章23~24節
信仰は、神の力があらわれるための通路となる。祈って疑わずに信じ続けるなら、その通りになると書いてある。しかし現実的には、祈っても風邪さえ治らないときもある。
祈っても聞かれない原因は多々あるが、ここにひとつ、深刻な理由が書かれている。
"また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」*"
マルコの福音書 11章25節
祈りはすごいのになぜ聞かれないのか。赦せない恨みの心が原因である。どんなことがあっても赦してから祈ることを学ぼう。
ただ切に熱心に祈るから、神が聞いてくださるのではない。先に赦さねばならない。
人間のすべての不幸は罪から始まった。しかし解決できないので、神は御子イエス様を送ってくださった。だから、祈る前には必ず、自分の中に罪がないか省みないといけない。悔い改めてから祈らなければ、祈りは聞かれない。
"もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。"
詩篇 66篇18節
"見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。
あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。"
イザヤ書 59章1~2節
神の耳が遠いのでも、力がないのでもない。まず罪咎を解決しなければならない。
ひどいことをされたときに、憎しみを持ち続けるのも罪。だから、すべてのさばきも悔しい思いもゆだね、まず赦さねばならない。
"だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、
供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。"
マタイの福音書 5章23~24節
礼拝に来る前に和解してきなさいということ。そうでないと、神様は礼拝を受け取らない。
"もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。"
マタイの福音書 6章14~15節
"まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。"
マタイの福音書 18章18節
つなぐならつながれる。解くなら解かれる。私たちは祈って叫ぶが、あなたが先に解けば解かれるという話。自分が結んでいるだけ。
生きていると、お互いに傷を受けたり与えたりする。憎いどころか殺したくなるほど。この憎しみが増すと、傷を与えた人を思うだけで憎しみがわき、何も考えられなくなる。これは家庭の中にも教会の中にもある。それにより事件も起こったりする。理性では分かっても、殺人を犯したりする。これは周りも不幸にするし、神の前にも罪である。
憎い心、許さない心を解決する唯一の道は、赦しを選ぶこと。信仰生活は正しいものを理性で選び、神の前で祈ることである。すると不思議なことに、赦せる力を神が与える。
ジョン・ウェスレーの友人が、憎い人の話をした。ウェスレーは慰め、それでも赦して和解するようにと勧めた。友は拒んで、憎いの一点張り。ウェスレーは友に言った。「これからどんなに小さい罪も犯してはいけないよ。あなたが赦さないなら、あなたも赦されないから。あなたは天国には入れないよ」。
神様に罪を許してもらうためにも、私たちは赦さねばならない。
"私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。"
マタイの福音書 6章12節
「負い目」とは罪のこと。
私たちは、赦しについては神に負債がある。神はご自身でこの世界と私たちを作り、最後にこの美しい地球を私たちに与えてくださった。だから神様は、霊の父でもあるし、与え主でもある。しかし私たちは神を裏切った。神の心にひどい傷を与えたことになる。
牧師も神も傷を受ける。神は本当にいつもよいことしかしていないのに、人間から返ってきたのは裏切りだった。神が感情のままにすべてを解決したなら、私たちはとうに滅ぼされている。しかし神は和解し、私たちとよい関係を結ぶことを選んだ。そのためには、赦しというプロセスを経なければならなかった。
赦さなければ次のステップに行くことができない。神が与えた赦しを私たちも持つことが、神の御心である。
"互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。"
コロサイ人への手紙 3章13節
神が先に赦したことを覚えておかなければならない。ペテロは、何度まで許すべきか聞いた。果たして七度まで許せるだろうか?
"このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。
しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。"
マタイの福音書 18章23~27節
清算のとき、1万タラントの負債のあるしもべが来た。貸主は憐れみ、帳消しにした。6000億円の負債を帳消しにしてもらい、しもべは喜んだはず。しかし自分は、他者の負債100万を赦さなかった。
"ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。
彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んだ。
しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。
彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」"
マタイの福音書 18章28~35節
心から赦さないならこうなる。
イエス様から罪を赦してもらった価値は1万タラント、6000億円。永遠の命だから、6000億円でもお安い。地上の傷は100万の損に過ぎない。いくら損しても死んだら終わり。永遠ではない、一時的な損。死ぬほど苦しかったとしても、その程度のものである。100万の損くらい赦せないのか? ということだ。
ひどい目にあえば、だれでも赦せないし、傷が痛む。何倍にも復讐したい。もちろん、ひどい目に会うことは本当に大変なことなのだが、もし私たちが赦さない、憎い、恨む、死んでほしいと相手の不幸を願うなら、そのことも私たちの罪になり、罰を受けねばならない。
常に永遠の命という視点から考え、一時的な痛みや感情から、永遠のものを台無しにしないようにしよう。
赦しは私たち自身の益になるのだ。
"あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。"
ローマ人への手紙 12章14節
のろってはいけない。悪に悪を報いるな。すべての人が良いと思うことを図れ。
ここには深い理由がある。もし被害を受けて悔しいと思い続けると、心には、憎しみ・呪い・殺意・復讐、そのようなものしか残らない。それでは私がさらに不幸になる。
加害者が不幸になるのではない。その思いは、相手ではなく私たち自身を殺し続ける。悔しいことを思い出すと夜中でも目が覚めたり、いくら家族や財産があっても、いくらうれしいことがあっても、悔しいことを思い出すたびにかき消されてしまう。被害を受けたうえ、二重三重に痛みを負うのは私自身なので、切り離しなさいと神は言われるのだ。
赦せない状態は、鎖でがんじがらめになっているようなもの。鎖は相手が握って遊んでいる。人生すべてが相手によって縛られてしまう。私たちから自由と喜びを奪う。周りと分離させ、ますます悲惨な状況に追い込む。唯一、赦すことしかない。自分自身がさばきつづけるのは大きな罪。そういう状態ではどんなに祈っても届かない。
とくに、憎しみは骨を枯らす。骨の病気を持ってくる。考えてみてほしい。
だから赦すのは自分のため。
赦すとはどういうことか説明する。
被害を受けたとき、相手が謝るかどうかを別として赦しを選ぶ、ということ。
これは、相手の過ちをなかったことにするのではない。相手の罪があるままに、受け入れて一緒に働いたりするのでもない。心にあるものを断ち切るのが赦し。そのさばきを神に完全に委ねること。そうすれば、自分にそのような思いはなくなる。
一緒に働きをする場合は、相手からきちんと清算を得なければならない。ただ相手の態度とはまったく別に、とにかく心にそのような苦みをもたないこと。憎しみの霊から解放されるためにもしないといけないこと。
自分では赦したつもりでも、心の中には残っている場合があるので顧みてほしい。
ではどうすればいいのか。完全に神にゆだねることだ。誤解が生じるのは避けられない。また不当な扱いをされたり、また自分が勝手に思い込んだりすることもある。
そんなとき、イライラして、弁明したり、仕返しをしたり、というのが普通。しかしこれでうまく解決できるのか? 問題はかえって複雑になるはず。互いに感情だけ傷ついて終わる。
神の子になろうとするなら、すべての裁きを神にゆだねることを学ばなければならない。ひどいことを言われたり、悪い態度を取られたりは誰にでもある。それでも、相手が話の通じる人なら、誤解を解いて和解するのがベスト。話が通じない人もいる。話すほど迷路に入るので、御言葉を信じて実行する人になろう。
"愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」"
ローマ人への手紙 12章19節
神様は、私たちの髪の毛一本までも数えておられ、すべて知っておられる。だとすれば、悔しさもみことばどおりにゆだねて、赦しを選ばないといけない。ずっと悔しさを持ち続けてはいけない。その心をおろすのは難しいが、祈りに祈ると主が助けてくださる。完全に許したのであれば、問題は御手の中にあるので、心に平安がある。だから平安が来るまで祈りなさい。完全に委ねられないなら、祈りが足りない。
ダビデは神が働く法則を悟っていた。ひどい罪を犯した故、ダビデはアブシャロムから追われ、エルサレムから避難生活までした。そのとき、きっと自分の罪をまた悔い改めたことだろう。そこへ、前の王サウルの親族シムイが来て石を投げ、ダビデをのろいはじめた。王様が息子と戦争をしたくないから避難しているだけなのに。
"たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」"
サムエル記 第二 16章12節
シムイののろいは不当だったので、ダビデはそのまま神に被害を委ねた。神が裁くとき、しあわせに変えてくださることをダビデは知っていた。実際、解決は速やかだった。
牧師もひどいめにあう。不当な扱いや誤解をうけたりする。いちいち言わないがつらい。感情的にもなる。そのたびにダビデのこの個所を思い出す。そして自分にこういう。今こそ神様への点数稼ぎ時だぞと。
被害をすべて飲み込み、腹の中の憎しみを捨てること。相手が何を言ってもだ。神様は被害を受けた人をほおっておかないから。いちいちやり返すと喧嘩両成敗になってしまう。
本当に成熟したクリスチャンは、被害をそのまま神にゆだねる。
実際に赦さないといけない。たしかに公義の神は裁き、罰するが、人が赦しあって幸せに生きることを望んでおられる。
問題が起きても赦しあって和解すると、祝福がそこから流れる。ヨブも苦しみを受けた。3人の友がお見舞いに来たが、慰めることもできず、一週間も灰をかぶって過ごした。そして罪を悔い改めよとヨブに進言した。いわれのない言葉にヨブの苦しみは増す。身に覚えがない。神の介入で解決するが、みこころがどのようなものかわかる。ヨブの言葉のほうが友の言葉より正しかったと神が言う。神は和解させる。友にいけにえを持たせ、ヨブが神にささげて祈るように言った。両方の罪が赦されると。
"テマン人エリファズと、シュアハ人ビルダデと、ナアマ人ツォファルが行って、主の彼らに命じたようにすると、主はヨブの祈りを受け入れられた。"
ヨブ記 42章9節
3人の友がそのとおりにすると、祈りは受け入れられた。ヨブの繁栄は元通りになり、所有物は2倍にされた。神は論争の和解をさせた。
この和解を彼らが拒んだら、このようなことは起きなかった。神様は、私たちが心に苦々しい思いを抱いたままでいることを望まない。だから、相手が受け入れようと受け入れまいと、和解する努力をしてほしい。
とくに、祈りの間に思い出して負担感を覚えるなら、面倒でも実行に移すこと。頭でわかっていることと実行することは違う。主は和解と一致のあるところに恵みを注いでくださる。