きまたまジャーナル

オーロラの海に浮かぶ氷山と、アーモンドの花冠

個人的メッセージメモ 6

神から出た者と神から出ていない者  20211203

ダニエル・リー師

 

https://youtu.be/ImzOeHtjyrI

 

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エス様はいわれた。真理を知りなさい、真理があなたを自由にすると。この言葉を受け入れる人と反発する人がいた。  


ー私たちはアブラハムの子孫。奴隷になったことなどない。自由にされる? お前は悪霊につかれている。


反発する者たちは石を投げ、イエス様を殺そうとした。

 

"神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」"

ヨハネ福音書 8章47節

 

御言葉を聞いたとき、なぜ反発するのか。それは彼らが神から出た者でないから。では誰から出たのか。父である悪魔からである。

 

"あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。"

ヨハネ福音書 8章44節

 

救われる前、私たちは悪魔の属性を持っている者だった。罪を愛する属性。


エス様を信じ解放されたのに、私たちのうちにいまだに悪魔への属性があるなら、神は用いることができない。しかし神は必ず、私たちのうちから、その属性をすべて抜き取ってくださる。


今日は、神から出た者とそうでない者の特徴を見ていく。私たちのなかに神から出ていない者の特徴があるなら、自ら取り除いていかなければならない。

 

 

1、真理に対する反応はどうか


まずは御言葉、真理に対する反応について。御言葉を受け入れるか受け入れないかの差が、両者にはある。イエス様は、神から出ていない者がなぜ自分を殺そうとしたか語られた。

 

"わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。"

ヨハネ福音書 8章37節

 

神から出た者は、御言葉がいつも正しいと認め受け入れる。だから、御言葉を自分が実行できたらすごく嬉しい。また、行えていなかった場合は、御言葉に心刺されるが反発はしない。できていない自分が悪い、ということを理解している。


そのような人は、行っていない御言葉を聴き続けるうち心が苦しくなり、結局は、それを守り行うことへと導かれていく。その人が神から出た者であり、神によって永遠のいのちへと定められている者だからだ。

 

"人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。"

使徒の働き 2章37節

 

心が刺されたその日に悔い改め、イエス様を信じるようになった者が3000人いたことが書かれている。

 

"異邦人たちは、それを聞いて喜び、主のみことばを賛美した。そして、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰に入った。"

使徒の働き 13章48節

 

永遠のいのちに定められた者は、御言葉を聞くと心刺され、イエス様の方に行くようになっている。一方、同じ神の言葉を聞いても、怒ったり殺したりする人がいる。ステパノが正しいいのちの言葉を伝えた時も、人々の心は刺されたが、反応はまったく違った。

 

"人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。"

使徒の働き 7章54節

 

はらわたが煮え返る思い。歯軋りする思い。

 

"人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。

そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。"

使徒の働き 7章57~58節

 

人々は、その御言葉を死んでも聞きたくなかったので、耳をおおってステパノに殺到した。ステパノは外に追い出され、石で打ち殺された。悲しい出来事である。しかしこれは教会の中でもたくさん起きていることを知らねばならない。


同じ御言葉を伝えても、異なる反応がある。


和解しなさい、許しましょう。先に仕える人になりましょう。互いに愛し合って一つになりましょう。ある人たちはアーメン!と同意する。しかしある人たちは気分を害し、牧師先生は私の立場になったことがないから分からないんだと陰口を言う。


また十分の一献金について話すと、正しく捧げている人たちはアーメン!と同意するが、捧げていない人たちは、心が刺されながらも不平不満を言う。聖日を守りましょう、と言うと不愉快になる人もいる。


『イエス様を信じます』と言うが、ある領域の御言葉は行なわない。それはすなわち、その部分に関しては、暗闇がその人をつかんでいることを示す。暗闇に支配されているから行えない。また御言葉によって内側から反発心が出てくる。


御言葉は光。私たちから暗闇を追い出す。しかしいまだに私たちが暗闇に縛られているなら、あるいは暗闇から大きな影響を受けているなら、自分自身が握りしめているゆえ、どんなに光が照らされても暗闇は出て行かず、反発が生じる。自分でも理由がわからないまま反発している人もいる。

 

自分は信じているつもりでも、ある御言葉についていつも反発心が芽生えるのは、暗闇が残っている証拠。これを感情的に処理しようとするなら解決しない。感情的とは、気が向いたらやろうとすること。その「時」は来ない。自分の内側に間違ったものがあることを認め、自由意思で御言葉を選ばねばならない。御言葉をつかんで切に助けを祈り求めるなら、必ず解放される。

 

"そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。
悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。"
ヨハネ福音書 3章19~20節

 

"しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。"

ヨハネ福音書 3章21節

 


2、御言葉を行うか行わないか


"わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行うのです。」

彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行いなさい。

ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。"

ヨハネ福音書 8章38~40節

 

エス様は、本当にアブラハムの子なら、アブラハムのように行えといわれた。アブラハムは私を殺そうとはしなかったと。


私たちが本当にクリスチャンなら、クリスチャンらしく生きることだ。


聞いた御言葉を行わないと、どうなるか。御言葉が自分を刺し悔改めに導くのに、それでも行わず、いたずらに時間を引き延ばすなら、その人は保身のための弁明を重ねるようになる。「いまの私の状況なら難しい」「環境のせいだから仕方ない」。しかしそれを超えると、ついには、御言葉に対する怒りを感じるようになる。


神と御言葉に敵対するのが、人間の属性。その中でも深刻なのが、自分がどこに堕ちたのかわかっていない状態。わかれば立ち返ることができるが、気づかなければ悪化する一方である。


食べたら必ず死ぬといわれた善悪の知識の実を食べ、神から責められたアダムはどうだったか。正直に謝っていたら、人類の歴史は変わっていた。しかし、まったく正直でなかったアダムは、妻と神のせいにした。

 

"人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」"

創世記 3章12節

 

求めてもいない妻をつくりやがって! こいつのせいだ!

妻は蛇のせいにした。

 

"そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」"

創世記 3章13節

 

結局は全部人のせい、環境のせい。


サウルはもっとひどかった。

彼の不従順は初めは小さかった。しかし、その小さな不従順が続くうち、あんなに謙遜だった青年が、ためらいもなく神の祭司80人を虐殺する者へと変質していく。また焦りから占い師のところに行き、サムエルを呼んで預言してもらう。矛盾だらけである。


サウルは、自分がどこで落ちたかも知らず、そのようなことを繰り返した。


気を付けよう。

従順できない御言葉が心に刺さったとき、即座に立ち返らねばならない。神は、悔い改めの機会を多く与えてくださる。その機会を捉えて御言葉を守り行うなら、かならず喜びと祝福がともなう。しかし、刺されながらも従順しないなら、その人の霊的状態は悪化の一途を辿る。

 

"また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。"

ヤコブの手紙 1章22節

 

御言葉を実行する人に。聞くだけなら自分を欺く。欺き続けるならだんだん悪くなる。

 

"ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。"

ヤコブの手紙 1章25節

 

信仰とは行うことを指す。そこに神は祝福を与える。クリスチャンの使命は、世の光、地の塩の役目をすること。主は私たちを、そのために召された。この世で神を表す存在として創造された。では、その使命をどのように果たすか。

 

"このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。"

マタイの福音書 5章16節

 

良い行いだけが、世の人たちが見ることの出来る光となる。


世の基準ではなく、イエス様の御言葉を守り、自分の利益でなく他人の利益を求める。そういう人は多くない。しかしそのような生き方は光となる。すると主が覚えてくださって、いつも祝福してくださる。もしその役目を果たせないなら、外に捨てられ、信じていない人々に踏まれて生きることになる。

 

"あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。"

マタイの福音書 5章13節

 

私たちが光や塩の役目を果たすなら、人々にもいつもいい影響を与えて、かしらとして生きることができる。

 

 

3、イエス様を本当に愛しているのかいないのか

 

"イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。"

ヨハネ福音書 8章42節

 

本当に神から出た者は、かならずイエス様を愛する。本物の信仰生活は、御言葉を守っているか守っていないかではなく、私が本当にイエス様を愛しているのかいないのか、その点にかかっている。


心から愛するようになると、信仰生活で問題になるようなことはまったく起きない。


異性を愛したことがあるか? 


本当に愛するとどういうことが起きるか。いつも一緒にいたい。いつもその人のことを考えている。愛している相手が頼みごとをしてきたら、なんであっても叶えてあげたくなる。もし手紙をもらったら、何度も何度も毎日毎日読み返す。もし相手のために犠牲を払ったことがあるなら、自分がその人を愛しているから、その犠牲が大きいほど喜びも大きくなる。


私たちがイエス様を心から愛するなら、礼拝の時間より楽しい喜びの時間はなくなる。祈ること、御言葉を読むこと、それが今よりどれほど素晴らしいものになることか。イエス様の御言葉を守り行うことも、喜びで守れるようになっていく。献金も奉仕も。


エス様とどういう愛の関係を築いているのか。信仰生活のカギは、そこにかかっている。イエス様は、あなたがたが神から出た者なら私を愛するだろうと言われた。私たちが御言葉を守ることも、神の恵みに満ち溢れているから守るのである。


だから、御言葉を守り行うことより、イエス様を愛することがもっと重要だ。愛するなら守れるようになる。


信仰生活は、無理やりやるからできるようになるものではない。聖書の知識がたくさんあるからでもない。神様を正しく知れば知るほど、愛するようになるし、感謝が満ち溢れるようになる。そうすると自然に御言葉が守れるように成長していく。

 

"私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。"

ペテロの手紙 第二 3章18節

 

ペテロは言った。イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさいと。もっと信仰生活が簡単になる。パウロもそう言った。

 

"私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。"

エペソ人への手紙 6章24節