きまたまジャーナル

オーロラの海に浮かぶ氷山と、アーモンドの花冠

個人的メッセージメモ 3

正しい霊の見分けとは

エステル・リー師

https://youtu.be/RQ31exei0Ko

 

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"愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。"

ヨハネの手紙 第一 4章1節


今は、文明は発達したが、霊的には真っ暗闇の時代。霊と肉はたいてい相反する。みことばにも、時代が悪いので知恵を用いよとあるし、にせ預言者がたくさん世に出たともある。イエス様も、いつも目を覚ましていよと言われた。また、終わりの時代にはサタンが選ばれた者さえも惑わして倒そうとすると書いてある。


サタンの目的は、私たちを倒して滅びの道に導くこと。ヨハネも、霊をすべて信じてはならない、その霊が神に属しているかどうか試せと言う。終わりの時代の霊の見分けの大切さを悟るべきである。


自分は見分けができると考えがちだが、人は意外に惑わされているものだ。サタンは光の御使いのように装って来るので識別が難しい。


ダビデとサウルを比較しよう。

ダビデは最後まで御心に叶う者だった。一方、サウルは謙遜で選ばれた者だったが高慢になり神に捨てられた。現代の私たちは、このように両者の結末を知っている。しかし、私たちが当時のイスラエルの民だったなら、どう感じただろうか。


ダビデは神に選ばれた者だったにもかかわらず、サウル王に追われ苦しみの生活を送っていた。ダビデに追従した者も、この世から捨てられたような者ばかり。一方、サウルは素晴らしい家臣をもち栄えていた。


人々の目には、サウル王こそ、神が祝福した者だと映っただろう。対するダビデは、神に捨てられて惨めな生活をしているように見えたはずだ。当時、神が選んだ者はダビデだと悟った者がどれほどいただろうか。私たちには知らないことがたくさんある。


"私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。"

ヨハネの手紙 第一 4章6節


これは未信者ではなく信者への手紙だ。厳しい言葉だが、ヨハネの手紙の結論は「愛しかない」だった。愛が基礎、愛を実践せよと。


ヨハネはなぜ、霊を試せというのか。それは、神の愛か人の愛かを識別するためだ。


神に属している者は神の言葉を信じて受け入れる。それが真理の霊。神に属さず神の言葉を受け入れない者は、偽りの霊、惑わしの霊であると書かれている。


惑わしとは、本当は間違っているのに本人は正しいと信じ込んでいるから「惑わし」なのである。


教会においても、神の愛で愛してたてあげているのか、それとも人の愛で愛して分裂分派に繋がっていくのか、見分ける必要がある。ヨハネが言っているのは、単に信じるなということではない。愛さなければならないが、まずきちんと見分け識別してから本当の愛で愛しなさいというのだ。


"愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。"

ヨハネの手紙 第一 4章11節


霊の見分けにおける神の意図とは何か。


ペテロが主の十字架を否定したとき、主はペテロに、サタンよ退けと言った。


人は自己中心的に考えるものだ。神のことを思わず人のことを思う。最も見分けが必要で、惑わされて欲しくないと神が思われるのは、神の子として呼ばれた私たちの中に人間的な愛が現れるとき。そのとき、その愛が神の栄光を塞いでしまう。


"キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。"

ガラテヤ人への手紙 5章24節


韓国語聖書では、さまざまな情欲や欲望とともに、人間的な情(人情)を十字架につけたと書かれている。


本当に霊の目が開かれるとわかることだが、分裂分派は絶対に神からの霊ではない。なので、それは結局神から捨てられると、聖書の多くの箇所に書かれている。だから、人間的な愛を排除しなければならない。


たいていの人は、自分が分裂分派を起こしたいなどとは、微塵も思わない。しかし、聖霊様が私たちに祈りを促すのは、人間的な愛がもたらしたトラブルについてであることが多い。真理の霊と惑わしの霊とを見分けなければならないが、一番大切なのは、自分自身の中にある愛がどこから来ているのか識別すること。自分の中にあるものが反応して外に出るからだ。サングラスをかけると風景に色がついて見える。しょせん霊は霊であり、肉は肉。


何か問題が起きたとき、本当の解決と変化を求める人は、自分を教えてくれる人を探していく。しかし人情、人間的な愛を求める人はただ慰めを求め、教会という共同体よりも自分のことを考えるので、自分をただ慰め激励する人を探していく。


類は友を呼ぶ。同じ種類の人が集まる。だからまず、自分の中に真理の霊がなければならない。


"また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。

兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。

偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。"

マタイの福音書 7章3~5節


自分の心の中心が、今どこに向かっているか見分けなさい。相手に、か。自分に、か。

悟りなさい。


人の過ちがハッキリ見えるとき、自分には霊の見分けができるのでは? と思いがちだ。しかし私は失敗した先輩として言いたい。


私自身にも見分けの賜物があるが、はじめはすぐ人のことを裁き、判断していた。その態度は正しくなかったので、自分自身も苦しんだし、主も識別せよと私を責めた。


"さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。"

マタイの福音書 7章1~2節


もし自分が誰かに裁かれたら、相手にも裁いてやりたいことは山ほどあると思う。霊の見分けとは、律法という測りざおでどちらが正しいか測ることではない。その人は惑わされている。測ったとおりに測られるので、愛するなら愛が戻ってくるし、裁くならもっとひどい裁きが戻ってくる。


みことばはブーメランと同じ。平安を投げるなら平安が戻ってくる。だから愛を行いなさい。


裁きは神がなさること。みことばに応答し実行するのが、人のなすべきこと。謙遜な心をもつ人を神が悟らせて訓練し、もっと分別ができるようにしてくださる。きよいキリストの花嫁として整えられていく。


"いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。"

コリント人への手紙 第一 2章16節


主の心を知らねばならない。相手の間違いが目に入るとき、成熟した心で主のみこころを抱く必要がある。人に、主の心を教えなければならない。そのとき相手も、ああそのようにするのかと受け入れるようになる。


霊の見分けは、誰かが教えて理解するものではない。学んで知るのではない。人が神のみことばどおり生きようとするときに、だんだん悟っていくものだ。霊なので、真理の霊であるみことばのとおり生きるとき悟ることができる。


エス様はパリサイ人の心と悪意を知っていた、という記述がある。何か言わなくても、すでにその心にあるものをご存じだった。また彼らが話したとしても、話そのものではなく動機を探っておられた。私たちは、第三者的な目で、自分を客観視する必要がある。


教会に来られないとき、実は体でなく心が病気で来られないことが多い。


本当に見分けができる人は、相手の動機を識別しても、5%も言わないだろう。言うとしても、謙遜に聞く人にだけ言う。だから、私たちは問題そのものについて教えるのではなく、主の心を教えようとしなければならない。まず愛を実践する人にならなければならない。誰それがああだからこうだから…と裁いてしまうと、その裁きが自分に戻ってくることを悟りなさい。霊の目を覚まして、主の心に似ていかなければ、皆で裁きあって皆で滅んでいく。


時間が経つうちに、ほんの少しずつだが、主の心がどういうものか私も悟っていくことができた。それはただ恵みだった。


自分の目の中の梁は見えない。たとえ少し知っている、見分けることができるとしても、それは神が教えるからであり、自分の力ではない。いちばんの恵みは、自分の目の中に梁があると悟ること。それを悟れば、相手の目にちりがあっても、けして裁くことはない。主の心を知りその人を抱くこと、正しく主の前に来られるよう涙で祈ることはできる。主も私に対して同様にしてくださった。


ただ完全な神の愛でひとつになることを掴みなさい。惑わされないように気をつけなさい、試しなさいとあるが、みことばのとおりに考えよう。教会の中の本当に親しい人を試してみてはどうか。あなたの過ちを直してほしいと、正しいことを一度言ってみてほしい。そうするなら、その人がどんな人が識別できる。辛いけど正しいことを言ってくれて本当にありがとうと言う人もあれば、去っていき2度と振り向かない人もいるだろう。そのとき、心に傷を受けないで、ただ識別すればいい。それで教会は本当の愛でひとつになっていく。


自分の過ちや罪を指摘されたとき、怒ったり関係を絶ったりするのは、本当の愛ではない。また、指摘する方も、言うときには本当に気をつけなければならない。それは自分の目から梁を取り除けた人が言うべき。いつも主の本当の愛でひとつになることが大事だ。


人間的な愛で集まると好き嫌いが生まれ、意図しなくとも分裂分派が自然発生する。


チンパンジーと人は3%しか遺伝子が違わないそうだ。みことばも、真理を3%すり変えてしまうなら私たちの救いはどうなるか。

霊の世界は本当に気をつけなければならない世界。小さなことだからと流さず、正しいみことばの中で訓練を受け、本当によいメンターを持つことができれば素晴らしいと思う。


リーダーも、みことばの前で本当に忠実に行わなければならない。自分の言葉ひとつで、人を生かすことも殺すこともできるから。まず自分自身の霊がみことばで生かされるとき、人を生かすことができるようになる。


神が私たちを先に愛して、真理の霊をくださった。神のからだの中で足りない信徒がいたとしても、愛をもって接していこう。教会を愛さなければならない。教会は聖別された場所で、すべてが神のもの。お互いに主の心をもって仕えていこう。動機を見ておられる方を覚え、心を見張っていこう。正しい識別力を持つ神の子となろう。