きまたまジャーナル

オーロラの海に浮かぶ氷山と、アーモンドの花冠

個人的メッセージメモ 5

ただ主の臨在だけを求めなさい 2015.1.2

ダニエル・リー師

https://youtu.be/WYRf55ogVGU

 

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今年こそ、ひとりひとりが霊的な打ち破りを経験できるよう願っている。その打ち破りにより、皆さんと皆さんの周りに神の国が拡張しますように。


ウガンダのジョン・ムリンデ牧師のメッセージで、このようなことを聞いた。


サタンがある地域や個人・家庭を攻撃すると、その上に霊的な大きな暗闇の雲の岩ができる。いったん覆われてしまうと、いくら祈っても天に祈りが届かないし、天からの恵みも注がれない。そのため、いつもいろいろな問題がそこに起きる。理由もなく不和が起きたり、争いがあったり、家族の中に病気が起こったり、経済的・社会的問題が起こったり。また祈らなければならないと頭では分かっていても、なかなか祈り心が起こらない。あることが罪だとわかったとしても、やめることができないという現象も起きる。


自分なりに正しい信仰生活をしようと努力しているが、願ってもできないときは、自分が大きな暗闇におおわれていることを悟る必要がある。


一つの例をあげよう。


ムリンデ師は、あちこちからリバイバルの器として招かれるようになった。あるとき、アメリカのシカゴでカンファレンスがあった。しかし初日、祈ることができなかった。時差や体調のせいかと思ったが、二日目も三日目も臨在に入れなかったので、ホテルの部屋で断食を持って祈り続けた。すると「それはあなたの問題ではない。この都市はあまりにも大きな雲に覆われているので、臨在が届かないのだ」と御声があった。


その後、ムリンデ師はオクラホマの知人の家に滞在した。そこで自由な時間を祈りつつ過ごした。そのとき幻を見た。


皿に素晴らしいケーキがあり、下に白い柱があって、きれいな青いリボンで柱を飾ってあった。そのうち柱は山に変わり、ケーキは大きな都会に変わった。都会からはすばらしく輝く光が放たれていた。まるで地球全体を照らすかのような幻だった。それは次第に遠のいて薄れ、またはじめのケーキと柱になった。


よく見ると柱にひびが入っており、その亀裂はどんどん大きくなった。思わず「崩れる崩れる」と叫ぶと、崩れて砕け散ってしまった。ショックだった。


主に尋ねると、「これはアメリカのことだ」と言われた。「アメリカは、神の光を全世界に放つため作られたものであった。今までは輝いて宣教師を送りだしたりしていたが、次第にかたくなで高慢な心になり、今はその使命をまったく果たしていない。それで、わたしは彼らに3つの災害を与えて懲らしめる。①全世界を困らせるような経済問題。②自然災害。③彼らの愚かな要求に答えていく。彼らは神の国と神の義を第一に求めるべきなのに、肉の満足のために必要の満たしを求めている。わたしはそれを与える。それがあとになってどれほど恐ろしい結果を生むか、彼ら自身が身をもって知るようになり、そこから悔い改めて憐れみを乞うようにする。」


どうすればよいでしょうかと、ムリンデ師は主に尋ねた。「わたしは破れ口に立つものを残してある。彼らは心から私だけを追い求めるようになり、彼らを通して打ち破りが起こる。新しいことをわたしはする」


ある日の集会でこのことを語ると、会衆に悔い改めと涙が起こり、ムリンデ師は主に感謝して祈った。打ち破りが起きていますと。すると主が言われた。「彼らが今涙ながらに叫ぶのは、悔い改めたからではない。神は良い神なのになぜそのような悪いことを決めたのか?という怒りの祈りを捧げているのだ」


とんでもないことであるが、これがアメリカの現状である。


私たちも正しい信仰生活を願うが、なぜうまくいかないのか。つまらない夫婦喧嘩や、親子のいさかいがあり、祈りにも集中できず、隠れた罪や弱さも断ち切れない。経済的にも困窮している。


このような人たちには霊的な打ち破りがまず必要である。彼らは何らかの原因で覆われているから。まず、自分の祈りを変える必要がある。持っている問題や必要の解決からフォーカスを変え、今日から、ただ臨在だけを求める祈りを始めよう。


あるときには、どこからどう祈っていいかわからないほどに、問題で混乱している。しかしそれは祈らなくてもよい。神はすでに必要を知っておられる。まず神の国と神の義を求めよう。それがわからないなら、ただご自身を求めることだ。


問題が起きる原因はどこか。それは自分と神様との「距離」にある。距離が遠いほど問題はたくさん起こる。近いほど問題は起きなくなる。だから、近づくことを祈るべき。するとすべてはうまくいく。祈らなくてもいろいろな面でうまくいく。必要は満たされ、健康は守られ、争いもやんでいく。


口では主だけと言っても、心で本当に神を求めているのか。それとも本心では必要のために求めているのか。それをすでに神はご存じである。私たちが神様をあまり求めないので神様が問題が起こることを許して、あなたが神のもとに来るようにする。だから、実は問題そのものはフォーカスすべき点ではない。そのことを祈っても、本当の解決はない。


根本的な解決は臨在を求めること。


社会全体が祈る国家なら、暗闇は濃くなく雲も薄い。そのような国では、すべての人がそこまで一生懸命に祈らなくても済む。しかしクリスチャンの少ない国は、暗闇の雲が厚い。霊的な無気力感が人を襲い、生活の中にも問題が多発する。ひとつ解決すればまたひとつ。サタンがそのようにして、その人の一生を盗んでいく。


根本的な解決は、ただ神が来られることにある。


人が主に近づくようになると、問題は解決に向かって進む。心の中から情熱も湧く。信仰も大きくなり、罪にも打ち破りが生まれる。それは全知全能なる神がともにおられるときに、自然に起こることだ。


個人個人にその打ち破りが必要である。日本にはあまりに厚い雲がある。だから、ひとりひとりが神ご自身を求める必要がある。そうすると主が来られ、その人に変化が生じる。その人がほかの人とは別な、御霊にある自由を感じることができる。たとえ環境は暗闇のままでも、霊的な打ち破りを経験したその人には、サタンは触れることができない。その人から大きな波が生まれる。教会がリバイブされ、国全体がリバイブされていく。


"その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきは脂肪のゆえに外される。」"
イザヤ書 10章27節


なぜくびきが肩からとられるのか。神の油注ぎがあるから砕かれるのである。そこには自由がある。ではどうすべきか。


自分の中に、神の臨在を呼ぶための祭壇、主が火をもって下られる祭壇を築くことだ。


旧約の人々は、石で祭壇を作っていけにえを捧げた。神がいけにえを喜ぶと火をもって下られた。現在は、私たち一人一人が生ける石。私たちの中に祭壇を設けていけにえを捧げるとき、火をもって主がくだってくださる。いけにえとは賛美と祈りである。


ほかのものは一切求めず、ただ臨在だけを求めて祈ろう。主が自分の中に来てくださるように。すべてがそれで変わっていく。主がご自身の火で弱さも焼き尽くしてくださる。そして、自分の中に主が臨在しておられるなら、人と話すとき臨在が流れ、相手にも影響を及ぼし、すべての問題に油注ぎが起こっていく。


神様は、ただ私たちと交わりたい。神様も私たち自身を望んでおられる。神の持っているものは好きだが神ご自身を求めないなら、金持ちの父にあいさつしに行って、お金をもらうのは好きでも、もらったらすぐ逃げたいと思うのと同じ。


神に解決する力がないから、解決しないのではない。神の御心はあなた自身。あなたとともにいたいということ。あなたと愛を分かち合いたい。それが神の願いと理解しよう。


神様ご自身を求めると、その人の上にいくら厚い雲があったとしても、天と自分との間に穴が開く。その人が移動すると穴も移動する。そのような人は、社会がいくら暗闇に覆われていても、区別された自由を味わえる。いろいろな面において、足りないこともなく、区別された自由がある。


祭壇を作ろうとして人が神を求めると、神が喜ばない罪や生活習慣を捨てるようにと、神からの指摘が来る。これはかなり難しいことだ。罪を当たり前のこととして生きてきて、自分自身の一部だから、捨てて従順することが難しい。しかし従順しないなら距離は縮まらない。


あきらめないでずっと求めていこう。決心できる日が来る。神を求めるために捨てる決心、臨在のために捨てる決心をして実行できる。そうして皆さんの祈りが変わっていく。臨在を濃く感じ、神を近く感じるようになる。今まで経験しなかった神様からの喜びと感謝、こころからの満たしがあふれるようになる。新しい油注ぎが来る。いままでできなかったことができるようになり、情熱ももっと湧き、信仰もくる。罪や悪い習慣、肉の世にも打ち勝ち、生活のいろいろな面も豊かになるし、関係も回復される。


このような霊的打ち破りを知るようになると、他の人とは違う自由の中に暮らすようになる。その人の祈りには権威と力があり、祈った通りになっていく。聖書をみよう。


"信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。"
ヤコブの手紙 5章15節


信仰の祈り、義人の祈り。この人が祈ると、他者の罪も病も癒されると書いてある。


"ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。"
ヤコブの手紙 5章16節


エリヤが例に挙げられている。

エリヤの時代はアハブ王の時代。イスラエルの暗闇の時代。しかし聖書は彼も、私たちと同じ人だったと強調している。エリヤが祈ると3年半も雨が降らなかったし、また祈ると雨が降り干ばつは終わった。義人エリヤには、天の窓を開いたり閉じたりする力があったということだ。


自分が神とどういう関係を持っているかが大切。主が喜ばないことを捨てながら主に近づくと、関係がぐっと近くなる。エリヤは3年半奇跡を食べながら生きたが、そのようなことが起こる。


聖霊様が祈りも導いてくださる。祈るべき事柄が多くとも、神様が導く祈りを祈ることが大切。日頃は何を祈ればいいかもわからない。しかし神に近くなると、何を祈りどう働くかも教えてくださる。そのときには、人間的な力や頑張りで信仰生活をしなくてもよくなる。従順していけばいい。天が開いているから、天使が助けてくれる。神の仰せが不可能に見えても、信じ従順することができる。


臨在だけを求めていこう。神は全知全能なる方。聖書では、私の髪の毛一本も数えてあると書いている。神が問題を知らないことが問題なのではない。私たちに、神を求める方向が分からないこと、神の望みがどこにあるかわからないことが問題。


神は私自身を求め、また神ご自身を求めることを願っていることをわかってほしい。


日本に霊的覆いがあることは事実だが、それはそこまで問題ではない。本気で神を求めるなら、その人の上には天が開くようになるから。そのような人々が集まればもっと大きな穴になる。そしてもっと素晴らしい恵みと油が注がれて、いろいろな解決がもたらされる。