きまたまジャーナル

オーロラの海に浮かぶ氷山と、アーモンドの花冠

ゼベダイの息子たちの母

f:id:kimatamajurnal:20230317220445j:image

 

"そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。

エスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」

エスは答えられた。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。

エスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです。」"

マタイの福音書 20章20~23節

 

十字架のことを話している最中に、弟子の母が息子のために最上級の祝福を願い出た。しかし、イエス様は怒らない。

 

あなたが求めている祝福の意味を、あなた自身、理解していない。また、わたしに許可できる内容でもなく、その件はすでに父が決めている、と話す。


この母と同じ肉の思いが、常に私の中にもある。天にある良きものを見つめているようで、その実、地にある成功を見つめている。もっとも重要な十字架についてイエス様が教えているときに、そこから気が逸れて、違うものを見つめてしまう。十字架が示されているのに、むしろそれを遮るように、華やかな成功と栄誉のストーリーを描いてしまう。

 

霊と肉はこれほどまでに違うのだ。

 

今朝はこの箇所で心が刺された。私の関心が本当に天の十字架にあれば、この食い違いは起こらない。人生に痛みが生じるのは、私のフォーカスがズレているからだ。